スキップしてメイン コンテンツに移動

吉松隆における日本的なるもの




Takashi Yoshimatsu: Symphony No. 4; Trombone Concerto; Atom Hearts Club Suite No. 1
Takashi Yoshimatsu Sachio Fujioka BBC Philharmonic Orchestra Ian Bousfield
Chandos (2002/01/22)
売り上げランキング: 31862



 現在日本で活動している作曲家に吉松隆という人がいる。慶応大学工学部を中退し、ほとんど独学で作曲技法を学んでデビューしたかなりユニークな人である(慶應と言えば、他にオンドマルトノのハラダタカシもここを卒業しているのだが、何かそういう人が育つ土壌でもあるのか)。経歴もユニークだけれど、作品もまたユニークだ。「新(世紀末)抒情主義」を標榜し、ジャズやプログレッシヴ・ロックといったポピュラー・ミュージックと後期ロマン派や印象派の音楽とを折衷させた「調性音楽」を彼は書く。現代において調性音楽を書く、ということ自体にエリート主義っぽい「現代音楽ファン」から無視されたり、鼻ツマミもの扱いされたりする原因があるのだけれど――というか私も以前はそのように「ネタ扱い」していた――もう少しちゃんとした評価してあげないといけないのではないか、と思う。彼の作品について語ったまともな文章を見たことがない気がするし。


 吉松は交響曲や協奏曲という古典的な形式の上で、過去に存在した音楽からの引用を多彩に広げ「新しい作品」として展開する。そこで調性的に、「クラシック」のように響かせる手腕が私個人としては「とても器用な人だなぁ」という感想を抱く。しかしその音楽はかなり「ニセモノ」っぽい。綺麗なんだけれど、ニセモノ――このとても不思議な感じと「技法の器用さ」が「日本的なもの」の大部分を占めている。特に戦後の高度経済成長期における日本人の感じ、というか(あくまでイメージにすぎないんだけれど)。吉松作品には、アメリカ製のテレビドラマに夢中になって、茶の間の畳の上にソファーを置いて、そこでコーヒーを「苦いなぁ」と思いながら飲む、みたいな「遠い場所への憧憬」と、それからそういう風に日本人が過ごした、という「過去の記憶」が詰まっているように思われるのだ。


 トロンボーン協奏曲《オリオン・マシーン》の冒頭は、アニメ『鉄腕アトム』のテーマ・ソングのイントロ(トランペットと弦楽器が微分音で重ねられ、ヴィブラフォンが鳴らされる)を引用したものからはじまる。これは手塚治虫へのオマージュでもありながら、手塚治虫という存在を「日本の過去」の象徴として取り扱って提示した分かりやすいメッセージだ。トロンボーンの叙情的なソロの合間に、幾度となくそのモチーフは反芻され、緊張が高まっていき、エマーソン・レイク&パーマー「タルカス」の5拍子リフをそのまま借用したパーカッションの連打へと繋がる様子は爆笑するしかないんだけど、ペンタトニックでできた旋律や邦楽に頼らずに「日本的な作品」を作れる作曲家として、吉松は稀有な存在だ。



OGTー309 吉松隆 弦楽オーケストラとピアノのための朱鷺によせる哀歌
音楽之友社
音楽之友社
売り上げランキング: 345795



 ちなみに随分前から吉松は「現代音楽撲滅運動」というものを提唱している。単純に言って「美しくない、小難しい現代音楽なんてクソくらえだ!」という話なのだが、インタビューなどを読むとその現代音楽に対しての思いもかなり愛憎が入り混じったものだということが分かる。なんだかんだと言ってこの人も「美しくない、小難しい音楽」が好きなのだ(たぶん)。


 吉松隆の運動もむなしく、現在も「美しくない、小難しい音楽」はアカデミックな音楽の世界では支配的である(面白い作曲家はたくさんいるけれど)。それは吉松のデビュー当時もそうだった。デビュー作《朱鷺によせる哀歌》は「楽譜の見た目はバリバリの現代音楽。でも演奏すると綺麗に響く」というメチャクチャに挑戦的なもの。コンクール審査員の目をごまかすために書かれたこの楽譜は観ているだけでも楽しい。とにかく音の配列が美しいのである。スコアは自筆譜を印刷したもの。こういう細やかさも日本的な性格を表しているような気がする。



日本管弦楽名曲集
日本管弦楽名曲集
posted with amazlet on 06.12.05
沼尻竜典
アイヴィー (2001/11/01)
売り上げランキング: 8151






コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

土井善晴 『おいしいもののまわり』

おいしいもののまわり posted with amazlet at 16.02.28 土井 善晴 グラフィック社 売り上げランキング: 8,222 Amazon.co.jpで詳細を見る NHKの料理番組でお馴染みの料理研究家、土井善晴による随筆を読む。調理方法や食材だけでなく食器や料理道具など、日本人の食全般について綴ったものなのだが、素晴らしい本だった。食を通じて、生活や社会への反省を促すような内容である。テレビでのあの物腰おだやかで、優しい土井先生の雰囲気とは違った、厳しいことも書かれている。土井先生が料理において感覚や感性を重要視していることが特に印象的だ。 例えば調理法にしても今や様々なレシピがインターネットや本を通じて簡単に手に入り、文字化・情報化・数値化・標準化されている。それらの情報に従えば、そこそこの料理ができあがる。それはとても便利な世の中ではあるけれど、その情報に従うだけでいれば(自分で見たり、聞いたり、感じたりしなくなってしまうから)感覚が鈍ってしまうことに注意しなさい、と土井先生は書いている。これは 尹雄大さんの著作『体の知性を取り戻す』 の内容と重なる部分があると思った。 本書における、日本の伝統が忘れらさられようとしているという危惧と、日本の伝統は素晴らしいという賛辞について、わたしは一概には賛成できない部分があるけれど(ここで取り上げられている「日本人の伝統」は、日本人が単一の民族によって成り立っている、という幻想に寄りかかっている)多くの人に読んでほしい一冊だ。 とにかく至言が満載なのだ。個人的なハイライトは「おひつご飯のおいしさ考」という章。ここでは、なぜ電子ジャーには保温機能がついているのか、を問うなかで日本人が持っている「炊き立て神話」を批判的に捉え 「そろそろご飯が温かければ良いという思い込みは、やめても良いのではないかと思っている」 という提案がされている。これを読んでわたしは電撃に打たれたかのような気分になった。たしかに冷めていても美味しいご飯はある。電子ジャーのなかで保温されているご飯の自明性に疑問を投げかけることは、食をめぐる哲学的な問いのように思える。

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」