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もし私の言葉が音楽であったなら、と思っている




もし僕らのことばがウィスキーであったなら
村上 春樹
新潮社
売り上げランキング: 10707



 乗ろうと思った電車が行ってしまい少し時間があったので立ち寄った本屋でパラパラとめくり、「まえがき」を読んで買ってしまった。村上春樹が「ウィスキーを飲む」ことを目的としたスコットランド・アイルランド旅行の模様を書き記したものなのだが、そんな素朴なエッセイの「まえがき」においてもこの作家はすごく大事なことを書き記している。「もしも僕らのことばがウィスキーであったなら」――「僕は黙ってグラスを差し出し、あなたはそれを受け取って静かに喉に送り込む、それだけですんだはずだ。とてもシンプルで、とても親密で、とても正確だ。しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住んでいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面のものに置き換えて語り、その限定性の中で生きていくしかない」。これはとてもシンプルな言葉だけれども、ものごとについて何かを語る、という行為にまとわりつく行為としての限界が実にうまくまとまっているような気がする。語ろうという対象よりも語りは前に行くことができない――音楽を語ろうとするとき、語り手の裏側に流れている音楽は、聞き手に聴こえないように。当たり前のことなんだけれど、そういう「当たり前」の壁を飛び越えようとする作家は信頼できる、と私は思う。


 一時期、村上春樹のエッセイを集中的に読んでいた時期があったのだが、長編よりも私にはエッセイ(それから短編)のほうがこの作家の「顔」と「作品」とが絶妙にマッチしているような気がしてならない。作家の顔と彼の長編小説とにはねじれた関係を感じるのである(作品の『質』とかとは関係なく)。ヘミングウェイがマッチョな小説を書いたり、プルーストが華やかな小説書いたりするのは素直に納得できるのに……とか思う(この素直に『納得できる人たち』は、『テキスト』に作家が引っ張られてる例なのかもしれないが。特にヘミングウェイ)。もちろん「作品」は「作家」から独立して読まれるべきものだ(と個人的に思っている)ので、「僕」が女の子とセックスしまくっていようとも「この朴訥とした農夫みたいな顔でこんな小説書くなんて!」と憤ったりすることはないのだけれど、不思議な感覚に陥ってしまう。逆にエッセイだとすんなり納得がいく――結構地味ーな感じの話を嬉しそうに話している感じの彼のエッセイと顔の地味さが繋がる、というか。


 ここまで長々とあんまり本の内容と係わりがない話ばかりしてしまったが、根っからのビール党である私が「ウィスキーも美味しそうだな」と思わせられる素敵な本でありました。本音を言うと味よりも「どのように作られているか」という薀蓄の方に惹かれるんだけれど。





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