- 作者: ジルドゥルーズ,Gilles Deleuze,小泉義之
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2007/01/06
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「僕らって言葉の意味とかを確定的なものとして、ひとつに定めようとしてしまいがちだけど、実際それって本当は不可能なんだよね~」という感じの話を、ルイス・キャロルとかジェイムズ・ジョイスとかから導き出そう、というような感じの本なのだと思う(ホントか)。頑張って読んだけれど、ここ何年かで最も「はぁ~、なるほどなぁ……。おもしれ~」という感想を抱けなかった本でもある。どうしたものか。
その感動の無さは「なんだこれ!わかんねぇ!!」という苛立ちとは異なったものだ、と思う。これは、教養高くてとても難しい本だ。特にラカンや言語学の術語が頻発するところとか特に。それらに関して私は門外漢も甚だしいところなのだが、しかし“なんとなく”で言いたいことが分かる(分かんない具合で入ったら最近ではキルケゴールのほうが分からなかった……)。でも、そこで私が“理解するもの”は、ドゥルーズの言いたいこと、というよりも「あれ?これってアドルノもこんな風に言ってるんじゃないか??」という感じなのだ。だから、私にとって、ドゥルーズの言っていることは既にアドルノから学んでいたもの、として感じられてしまった。
もちろん、ドゥルーズとアドルノでは違う。けれども、前者がカバン語を語るとき導き出そうとするものと、後者がヘーゲルの弁証法(あるいはベートーヴェンの《英雄》)から導き出そうとするものにはすごく重なるものを感じる。誠実で勤勉な人間であれば、似てる、けど違う、じゃあどこが異なっているのか、についてテキストをもっと熱心に読むべきだろう。っていうか、私もするべきなのだ、たぶん。アドルノ、という差異に留まり続ける思想家に魅せられた者ならば「ドゥルーズとアドルノは似ている」と語ることさえも許されないことかもしんないし。
まぁとにかくドゥルーズを媒介としてアドルノを読むことは可能である、という直感は得たし、またアドルノを読みたいなぁ、という気持ちにはさせられた。
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