スキップしてメイン コンテンツに移動

斎藤信哉『ピアノはなぜ黒いのか』




ピアノはなぜ黒いのか (幻冬舎新書)

ピアノはなぜ黒いのか (幻冬舎新書)







 日本のピアノ教育(あるいは音楽教育)、そしてピアノ製造業の不思議さを浮き彫りにするような良書。31年間、ピアノの販売員/調律師として活躍なさっていた斎藤信哉さんという方が書いているのだけれど、現代の作曲家や音楽学者によって書かれた文章とは異なった「現場力」によって書かれているように思う。筆者は、音楽の“本場”ヨーロッパと比べて「日本のピアノは奇妙だ」と指摘する。こういう物言いは神経質な人からすれば「ケッ、未だに文明開化当初と感覚が変わんねーのな!日本にコンプレックスを持ってる人間はいつまでも欧米礼賛してろよ!!」とか思われるかもしれない。正直言って、それは少し私も感じてしまうところである。ここで言われているヨーロッパのピアノの価値観は、微妙に相対化されていないのだ。


 でも、現実にヨーロッパはずっと“本場”である。日本という国も優秀な演奏家を輩出してはいる。けれども、その一流演奏家のほとんどが教育の場をヨーロッパに求めてしまう(余談だが、ウィーン国立音楽大学にいる外国人の学生では日本人が最も多い)。純粋に日本の教育的土壌から世界に通用する演奏家が生まれたことは今まで一度もない、と言ってもいい気がする。なにより悲しいのは、世界に誇れる才能が一端日本の外に出てしまうと二度と戻ってきてはくれないことである。内田光子(彼女の場合ほとんど海外で教育を受けていたため、厳密には日本の演奏家とは呼べないが)、庄司紗矢香といった演奏家が日本におらず、その素晴らしい演奏を聴くためには「来日の機会」を待たなくてはいけない――そんなバカらしいことってあるか!?と思う。


 世界で最も在来オケが多い首都を持つ国、日本がこうしていつまで経っても“本場”になれない。その「なれなさ」が著者の「ヨーロッパが微妙に相対化できていないところ」につながっているように思った。こういう語り方は、生真面目な作曲家や音楽学者には書けない。


 本の中で触れられているトピックはかなり多岐に渡っている。後半は筆者が仕事をしてきたなかで生まれた人情話みたいで結構ダレるのだが、ところどころに素晴らしい発想がある。例えば、「こんなに大きな音は必要か」という章では現代のピアノという楽器の概念を覆すかのような提案がなされている。


 現代のピアノは「よりクリアな音」、「より大きな音」を目指して飛躍的に発展してきた。今ではピアノは、電車通過時のガート下と同じぐらいの音量が出せるぐらいパワフルな楽器となっている。しかし、こんなに大きな音が必要なのか、と筆者は素朴に問いかけるのである。日本の住宅環境のせいで「大きな音が出る楽器」は致命的である。それに大きな音が出るようになればなるほど、楽器は重くなり、また鍵盤のタッチも重くなり、厄介な楽器としての性格が強まる。なのになんで日本のメーカーはいつまでもデカい音が出る楽器しか作らないのだろう――目から鱗が落ちるような思いでこの部分を読んだ。うん、たしかにそうだよな。俺らコンサートホールに住んでるわけじゃないんだし、デカい音なんかいらないよな、とすごく納得してしまう。かつて世界一を誇った日本のピアノ生産台数も、今や中国に抜かれ、ヤマハやカワイといったメーカーは、ヨーロッパの“本場のピアノ”とアジアの“安いピアノ”の間で板ばさみになっている。その状況から抜け出すための秘策として筆者が提案するのが「音の小さいピアノ」なんだけれど、これは名案だよなぁ。ヤマハもカワイもヨーロッパのピアノより高いピアノを生産しているけれど、同じような値段なら“本場”を求めるだろうし……。


 音楽の先生やピアノの先生が読んでくれたら、きっともう少しは日本が“本場”に近づけるんじゃないかな、と思います。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...