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ホセ・エルナンデス・オクムラ《1986年7月13日のバラデロ海岸》



f:id:Geheimagent:20050322122516j:image:h100:rightキューバの作曲家、ホセ・エルナンデス・オクムラは、ブラジル国内において軍事独裁政権が樹立し国を負われた日系人の左翼活動家の両親の元に生まれている。1992年に来日を果たしたときの音楽批評誌『ポリフォーン』誌には、彼のインタビューが掲載されている。



現在でも状況は変わらないのですが、キューバにおいて日系人という存在はとても珍しく思われていました。近所に住んでいる同じ年代の友達と遊んでいても、私はいつも彼らと私との肌の色の違いを不思議に思っていました。きっと、彼らもそのように考えていたでしょう。


また、キューバでは通常、スペイン語が話されていますが、私の両親はポルトガル語しか話せませんでした。私の両親が所属していた亡命者のコミュニティでは、両親と同じくブラジルから亡命してきた人もいたので父と母は特別不便な思いはしなかったようです。しかし、私は違いました。同じポルトガル語を話しているけれど、私の家族と他のポルトガル語を話す人の外見は全く違いますからね(笑)


ですから、私にとってアイデンティティというのは非常に重要な問題だったのです。テレビでアジア、特に日本の人たちの姿が映るたびに私は安心しました。「ああ、私と同じような人が外国にいるのだ」と。



 複雑な出生から自らのアイデンティティを問い続けることとなった少年時代のオクムラはふさぎがちな子どもだったという。「学校が休みの日は自分の部屋で一日中ラジオを聴いて過ごしたのです。そうすれば、誰の肌も気にせずにすみますからね」と彼は述懐する。少年時代のオクムラにとって、ラジオだけが寡黙で親密な友人だったのである――しかし、そのラジオがアメリカの短波放送を受信できる日本製のトランジスタ・ラジオだったことがその後の彼の運命を決定付けたのかもしれない。そのラジオから聴こえてきたジョン・ケージの作品が、彼を現代音楽の世界に導いたのだから。



まず、私はプリペアド・ピアノの音色に惹かれました。あれはとても、なんというか“奇妙な音色”がしますでしょう?最初、私はそれがなんの音か分かりませんでした。奇妙な音の正体を知ることができたのは、音楽大学に入ってからのことです――私はそこでひどい劣等生だったのですが、当時のキューバの音楽教育は非常にレベルが高くニューヨークやパリやケルンで行われているような最前衛について詳しい先生たちが何人かいたのです。


ピアノの弦に、ゴムやネジを挟んであのような音色を作っていたことを知って、私はとても驚きました。そしてより一層、プリペアド・ピアノという楽器に愛着、というよりもむしろ共感を抱いたのです。ご存知の通り、ピアノという楽器は西洋の音楽において絶対的な位置を持っていた楽器です。それに異物を挟み込むという行為は、何か私の出生の複雑さに似たものを感じました。


私は今でも特殊な、変わった作曲家だと見なされることが多いのですが、おそらくプリペアド・ピアノとの出会いが深くそこに影響しているでしょう。私はそのときから自分の異質性を肯定するようになったのです。



 音楽大学を卒業後、キューバの観光用サーフィンショップで働きながら作曲活動を続け、1986年にキューバの新人作曲賞を受賞する。キューバの音楽界では極めて異例な、国外の最前衛への高い関心とやはり作品の異質性が高く評価されたようだ。受賞作である《1986年7月13日のバラデロ海岸》では、既にエレクトロニクスが使用されており、極端に変則的なチューニングが施されたギターによる作品である。












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 スペクトル楽派が音色をコンピューターで分析したのに対して、この作品ではバラデロ海岸に打ち付ける波のリズムが分析の対象となっている(このような試みは、むしろメシアンの鳥の鳴き声の採取に近い)。リバーブ/ディレイ処理がかけられ、増幅されたギターのフレットノイズは波の音を模したものだろうか。緊張と弛緩の反復が、独特なドローンを生んでいるところが素晴らしい。音の数は極めて抑制されており、演奏時間には大幅な差はあれどモートン・フェルドマンの作品を思い起こさせる。





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