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アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』





 「マジック・リアリズムの創始者」とも謳われる、スイス生まれのキューバ育ち、フランス亡命者というコスモポリタンなラテンアメリカの作家*1、アレホ・カルペンティエルの『失われた足跡』を読む。こちらは現在、絶賛絶版中であるが、アマゾンで調べたところ、私が持っているものと同じ集英社「世界の文学」版(ガルシア=マルケスの『大佐に手紙は来ない』も収録されている)が、最安値135円で売っている*2ので「いまだ、さあ、買え!」という勢いでオススメしておきます。超面白かったよ!!!!





 話としては、以下のようになる――主人公である<私>は、かつて芸術的な作曲家を目指していたが、戦争による仕事の中断などがあり、かつてのような情熱をなくしてしまい、ティンパンアレーで売れる音楽を作り続ける音楽家として働くことで生活している男。この男がひょんなきっかけて、幼少期を過ごした南米のある国のジャングルの奥地に住む部族の楽器を収集する仕事を頼まれるのだが……というような。言ってしまえば、典型的なロード・ノヴェルの形式を取るのだが、このジャングルの奥地に向かっていく旅路が、人類の歴史をさかのぼる行為と重なっていくスケールのでかさに圧倒されてしまった。<私>は、ジャングルの奥地で<人類の誕生>に立ち会うことになるのだが、そこでの時間の流れ方と、(男の出発点である)現代のそれとでは、まったくスピードが異なっていて、歯車がかみ合うことはない。そして、このかみ合わなさによって、物語は非常に切ない終幕を迎えるのだけれども、この構成が素晴らしい。




 主人公は音楽家であるだけに、音楽の描写も濃密で、かなりマニアックである。この作品における音楽描写のすごさは、間違いなくこれまでに読んできた作家のなかで、ナンバーワンだ! と断言できるぐらいすごい*3。特に、南米の田舎町に滞在しているときに、古ぼけたラジオから流れてきたベートーヴェンの《合唱付》によって、幼少期の記憶が唐突に蘇るシーンの流れは素晴らしすぎて悶絶モノである。このようになんらかの契機によって、記憶が蘇る、とはプルーストを彷彿とさせるのだが、カルペンティエルが描いた《合唱付》全編(!)と、記憶との対応は、文章によってあの楽曲のフルスコアを想起させられるほどだ。この部分を読むだけでも、価値がある、と言ってしまっても良い気さえする。





 また、「マジック・リアリズムの創始者」と謳われるだけあって、超現実的な描写がいたるところで現れるところにも興奮した。例えば、南米の市街地で突如巻き起こった革命の動乱とともに蠢き始め、配水管から沸いて出てくるおぞましい虫たちや、旅の途中で<私>とめぐり合う<女>と結ばれようとするときに蝶の大群が空を覆う……など、(言ってしまえばコテコテの)驚異的現実が登場する。物語の主題は、「時間」と「記憶」にあるのだろうが、そういう突拍子もない描写を拾っていくだけでも楽しい気分になってくる。




*1:このような経歴は、ボルヘスと少し似ているかもしれない


*2:私は1500円で買ったのに!!


*3:解説によれば、カルペンティエルの父は、あのパブロ・カザルスの教えを受けたこともあるアマチュアのチェロ奏者だったそうで、その影響を多大に受けたのだとか





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