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『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』




ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 オリジナルサウンドトラック SPECIAL EDITION
サントラ 林原めぐみ ザ・ピーナッツ ピンキーとキラーズ
キングレコード (2009-07-08)
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 『序』を結局観てないんだけど「アニメ・シリーズと一緒」という話を聞いたので、『破』を観た。エヴァが動くシーンのスピード感がむちゃくちゃにカッコ良くて、笑いが止まらなくなる。目標に向かって猛ダッシュする三体のエヴァ。あそこ、良かったなぁ……。





 とはいえ、アニメ・シリーズや旧劇場版を知っている前提で進められている(と思われる)ストーリーは、結構スカスカで、結局のところ、これは記憶によって「かつて描かれた部分」を補完することがあって始めて、物語として成立する。この意味で、劇場内に敷かれた作り手と観客とのコミュニケーションの関連性は必然的に「オタク的なもの」と呼ばれることを免れない。旧作との差異に、映画の楽しみを発見することは批判されるべきものではない。





 ひとつ気がついたことは、これまでにエヴァンゲリオンというアニメのなかで、図像解釈的に分析されてきた、さまざまな形象の描かれ方が以前よりも露骨、というか分かりやすく描かれていることである(単に、観客である私に、そのような浅知恵がついただけかもしれないが)。





 例えば、画面いっぱいに広がったセカンド・インパクトの爆心地の同心円は、ダンテの『新曲』に描かれた地獄の階層図を想起させたし(ちなみに地獄の中心にはルシフェルが存在している)、釘のようなものによって碇シンジが手のひらを貫かれるシーンからは、彼が「神の子」であるという暗喩を読み取ることができるだろう。また、加持リョウジの存在は、ヴェルギリウスかもしれないし、さらに綾波レイはベアトリーチェかもしれないのだ。





 このような妄想的分析の容易さは、なにも宗教や古典文学と結び付けなくても多様に広がっていくだろう――精神分析的に『破』の終幕を「父によって奪われた母を奪回する」と読んでも良いのだ。しかし、登場人物の感情のぶつかり合いは、そのような妄言のはるか遠くを飛んで、こちら側に届くものである、と思う。セカンド・インパクト以後の世界と、我々が今いる世界との隔絶は、以前よりもずっと距離がある。人間以外の生き物が施設のなかで、復元されて生きている。テクノロジーは発展している。我々のいる世界とのつながりとは、いくつかの生活用品と、登場人物の感情だけではないのか。





 個人的には、「自分は選ばれていない」というトラウマを根源的な不安として抱えるがゆえに、「選ばれている自分」を演出しているアスカという登場人物が好きだ。そこには厭らしいほどのギラギラとした権力への意思がある。言うまでもなく、この性格は碇シンジと真逆のものであろう――シンジは「選ばれてしまっている者」なのだから。




 考えてみれば、アスカというのはこれまで徹底して救われないキャラクターであったし、今回もまた、なんだか救われないキャラクターとして扱われていて、心が苦しくなる。だから私は、スタッフ・ロールが流れ終わった後に*1、チラリと垣間見えるアスカの「復活」に期待してしまうのだった。




*1:このときバックで流れている宇多田の曲、すごく変態で良かった。やはり彼女は天才だ!





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