スキップしてメイン コンテンツに移動

ダーティハリーをシリーズ全部観るよ #1




ダーティハリー [Blu-ray]
ワーナー・ホーム・ビデオ (2009-11-03)
売り上げランキング: 6779



 「そういえば『ダーティハリー』って最初のヤツしか観てないな」と思い、とりあえず「1」~「3」までソフトを買ったのだった。律儀な性格であるため「1」から観て行く。何度も観てるけど、スコルピオの太ももにナイフがグッサリ刺さるシーンは笑うなぁ……。「イ゛ィィィィッ!!」ってちょっと聞いたことがない声である。



ダーティハリー2 [Blu-ray]
ワーナー・ホーム・ビデオ (2009-11-03)
売り上げランキング: 13475



 続いて「2」を観たんだけど、この「1」→「2」の流れはとても面白かった。映画は街で大きな顔をしているギャングの親分が証拠不十分で釈放されるところから始まる。「なんで釈放なんだ!」とサンフランシスコの市民はすごく怒って暴動みたいになる。「アイツは悪いヤツだと決まってるんだから、捕まるのが当たり前だ!」という民意がここで提示される。その民意に応えるように暗躍する武装警察官、街の掃除屋と言わんばかりに悪人を(不法に)殺しまくるこの警官をハリー・キャラハンが追う!……のだが、「2」の犯人はハリー・キャラハンと行動原理があんまり変わらないのであった。つまり「2」の犯人はキャラハンと鏡の関係にある。どちらも大変な正義漢だ。悪いヤツが死ぬのは当たり前だし、率先してブッ殺すべきだと思っている。実際、犯人は「俺の気持ちがわかるだろ? 仲間になれよ」と持ちかける。しかし、キャラハンはその提案を拒否する。とくにキャラハンが葛藤とかなく拒否しちゃうので、なんか勿体無い気もするが、とにかくキャラハンは原理主義的な正義の行使に加担せず、犯人と戦うことを選択する。





 「悪いシステムでも、それがシステムとして機能している限り、守るべきである(大意)」とキャラハンは言う。これはすごく微妙な発言だと思われて、すごく気になってしまった。だって「1」のキャラハンはこんな線引きしてないんだもん。「1」のキャラハンは、システムを前にして上手いこと正義を振りかざすことができず、クビを覚悟で犯人に立ち向かうが、ここではまるで間逆なことを言っている。「1」の犯人は狡猾な異常者だったから、違法行為が許されたのか? それとも「2」の犯人は目的のためには罪がない人にも犠牲を払わせていたから、許せなかったのか? あるいは「散々危険な目にあわせといて、今更仲間になれなんて虫が良すぎるっつーの!」という怒りがあったからか? いずれにせよ、キャラハンの振る舞いは大変微妙なものに思えた。「身の程を知れ」と彼は犯人に忠告する。ここにはシステムを超越して、神的な視点から正義を行使することはできない、という内在的なメンタリティが見え隠れする。しかし、キャラハンはシステム的に正しい手順を踏んだりしない。この態度をどのように受け取って良いのかとても迷ってしまったのだった。友達の元奥さんに誘惑されたり、初めて会って30秒ぐらいでアジア系の女性から「寝てくれない?」と誘われるなど、ストーリーとあんまり関係ないキャラハンのモテっぷりも気になる。システムから超越できない、と言いつつイーストウッドは軽々と超越してるような気もする。イーストウッドだから、なのか?





 ラロ・シフリンのスコアは「2」になってパワー・アップ。オープニングのテーマなんかリターン・トゥ・フォーエヴァーみたいだ。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...