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読売日本交響楽団 第493回定期演奏会 @サントリーホール




曲目


ショスタコーヴィチ/交響曲第7番《レニングラード》


指揮


ユーリ・テミルカーノフ



 今年度の読響サントリー定期2発目。ショスターコヴィチは、かつてたくさん聴いた作曲家で《レニングラード》も愛聴した曲である。しかし、テミルカーノフの演奏は聴いたことがなかったし、さらに言うと「どんな演奏をするだろう?」という興味もあまりわかなかった。





 そもそも今日に「テミルカーノフが積極的に好き」という人はどれぐらい存在しているだろうか? ムラヴィンスキーの後釜として、レニングラード・フィルの音楽監督に就任した瞬間(1988年)、というのがこの指揮者が注目されたピークの時期ではなかろうか。キャリア的にも、ポスト的にも現代ロシアを代表する指揮者にも関わらず、すっかりゲルギエフの影に隠れてしまっている気がする。喩えるなら「かつては巨人の四番を打つスター選手だったが、全盛期は過ぎ今はパ・リーグの下位球団で微妙に活躍したりしなかったりしている(年俸は8000万)」みたいな感じ。





 私のなかでさんざんなイメージになっているテミルカーノフだが、今日はなかなか聞かせてくれた。興味があまりなかった分、儲けたような気分になり嬉しい。オーケストラも気合充分で(特にヴァイオリンの音圧が良かった)、楽想が変化した後の立ち上がりなどで演奏がやや乱れた箇所がいくつかあったが「オーケストラが情熱的になりすぎた結果」と好意的に解釈できる。





 テミルカーノフの指揮は、歌い込むような箇所でテンポを少しずつ落としていくところが目立ち「もしかして濃厚・爆演系になるのか?」と思ったが、最後まで品性が保たれる。走らない、吠えない。しかし、予想通りにはいかない感じである。「ここはテンポを落として次に入るのかな……」という予測に乗ってくれたり、はぐらかされたりする。が、最終的には「これがおそらく現代のショスターコヴィチの理想型の一つなのだろう」という納得がいく。


 


 それは悲壮や諧謔、皮肉や思想を削ぎ落としたショスターコヴィチの姿である。「あえて」や「わざと」や「実は」といった言葉のなかに本意が隠されていない(隠されていたモノを見つけだすのではなく、そもそも隠されていない。謎解きがない)、といった状態をテミルカーノフは描き出しているように思われる。脱構築的? よくわかんないけど、なんか異様にアポロン的に響いて聴こえるショスタコーヴィチであった。





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