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Otomo Yoshihide New Jazz Trio+/Bells, Lonely Woman




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Lonely Woman
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 大友良英が新たに結成した「大友良英・ニュー・ジャズ・トリオ+」の新譜を聴く。同時発売された2枚のアルバムでとりあげられているのは、それぞれアルバート・アイラーの「Bells」と、オーネット・コールマンの「Lonely Woman」。アルバム一枚全体で一曲ずつ取り上げる、という聴く前から作り手側の意思が伝わってくるような構成となっている。アイラーとコールマンといえば、フリー・ジャズを代表するサックス奏者なわけで、しかも《登場したときから、いきなり異形の人》みたいなミュージシャンだ。彼らの作品が選択されていることからも、何がしかの意味が読み取れるかもしれない。フリー・ジャズに取り組む、という方向性は、大友良英・ニュー・ジャズ・オーケストラの『ONJOプレイズ・エリック・ドルフィー・アウト・トゥ・ランチ』とも重なる。しかし、この新しいプロジェクトは単にオーケストラの規模縮小版ではない。というか、全然違っている。





 聴こえてくるのは、音響的に解釈されたカラフルなフリー・ジャズではなく、旋律の生々しい主張であり、その色合いはモノトーンの濃淡をイメージさせる。そこにはカヒミ・カリィもおらず、ポップなものとは程遠い(とはいえ「Bells」も「Lonely Woman」も聴き手に強烈な印象を与えるポップな求心力をもった旋律である、と言えるのだが)、渋い世界が展開されている。この傾向は、トリオでの演奏、または、大友のソロ演奏で強く感じられる。しかし、ゲスト参加のミュージシャン(Sachiko M、ジム・オルーク)が入った演奏では、また聴こえてくる風景が違ってくる。エレクトロニクスの音は、旋律の背景に幽玄な霧のようなイメージを想起させ、旋律とのコントラストを形作る。




 強い旋律が、記憶にアンカーポイントを刻み付け、その旋律を聴くたびにその記憶が自動的に甦ってしまうことがある。私はキング・クリムゾンの『アースバウンド』やYESの『危機』を聴くたびに、高校の通学路にあった川沿いの風景を思い出す(それは当時毎日プログレをMDで聴きながら学校に通っていたからだ)。「音楽を聴き、それが終った後、それは空中に消えてしまい、二度と捕まえることはできない*1」けれども、音楽が普段は消え去ってしまっているかのように見える記憶を再びかき集めてくれることもある……とも言えるだろうか。2枚のアルバムを何度か交互に繰り返して聴きながら、考えていたのはそんなことだった。強い主張をもった2つの旋律は、誰かの記憶に揺さぶりをかけることがあるかもしれない。2枚のアルバムに大友自身が寄せている1970年と1980年にあった出来事についての短いエッセイの存在もまた、旋律と記憶の関係に何がしかの示唆を与えるものだろう。渋い音楽……にも関わらず、人を寄せ付けない厳しさがあるわけではなく、叙情的であり、どこか親しみさえ感じる不思議な音楽だと思われた。




*1:エリック・ドルフィーの言葉





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