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サントリー サマーフェスティバル2011〈Music Today〉〈映像と音楽〉管弦楽 @サントリーホール 大ホール




アルノルト・シェーンベルク:映画の一場面への伴奏音楽(音楽のみ、1929-30)


アンドレイ・フルジャノフスキー(映像) × アルフレート・シュニトケ:グラス・ハーモニカ(1968年)(35mmフィルム、カラー)映像・世界初公開、音楽・日本初演


ビル・ヴィオラ(映像) × エドガー・ヴァレーズ:砂漠 15人奏者、打楽器奏者とテープのための(1994年製作、1950-54作曲)(35mmフィルム、カラー)映像・日本初公開





指揮:秋山和慶


管弦楽:東京交響楽団



サントリー・ホール夏の恒例となっている現代音楽祭「サマーフェスティバル」。本年のテーマのひとつは「映像と音楽」、そのオープニング・コンサートに足を運んだ。本日のプログラムには、架空の映画のために作られた映画音楽(シェーンベルク)、映像と音楽を共同作業で制作したが《時代》によって公開されなかった作品(フルジャノフスキー × シュニトケ)、既存の音楽に映像をつけた作品(ビル・ヴィオラ × ヴァレーズ)とそれぞれ性格が異なるものが並んでいる。生のオーケストラの演奏自体、視覚的コンテンツ性が高いものであると思うし、映像と音楽の食い合わせ、についても議論になるところだろう。全面的に大賛成、最高、と賛辞できる内容ではなかったがさまざまな問題提起を投げかける好企画であったと思う。





まずはシェーンベルクの作品。かなり珍しい曲だったと思うが、演奏のクオリティにちょっとした疑問が生じてしまい、単に珍曲披露で終わってしまった感がある。そもそもの編成的な問題があり音量の物足りなさがあって余計にパッとしない印象を持った。前述の通りこの曲は架空の映画のために書かれた音楽。後世になってストローブ=ユイレがこの作品に「社会性の強い映像」をつけたと言うが、この12音技法によって書かれた不穏な響きを持つ作品が、「社会性」へと接続されることはいささか短絡的なものに思える(その映像を未見の状態で述べる意見ではないが)。今日の耳では非常にロマンティックな作品としても聴くことができるだろうし(《室内交響曲第1番》の響きを想起させられた)、自身でも絵筆を取り、画家との交流もあったシェーンベルクがどのようなイメージを音楽に与えていたのか。それを再構成するような映像が今日の場で与えられても良かったのではないか。





そしてフルジャノフスキー × シュニトケのアニメーションだが、これは間違いなく本日のハイライトと言って良いだろう。演奏の前に映像を制作したフルジャノフスキー監督自らが壇上にあがり、いくつか作品を制作した当時のソ連の状況などについてトークがあった。体制による検閲があり修正を要請されたこと、それでも公開が許可されなかったこと。また、前衛と見なされた芸術家の不遇な状況(そうした芸術に興味を持っている、と思われたくないため、聴衆もなかなかそうした芸術に触れられなかった)。こうした表現への抑圧は、ショスタコーヴィチに代表されるソ連の作曲家に親しみを持つ者であれば聞くまでもないことだったかもしれない。しかし、作品はそうした《状況に対する知識》を超えて感情に迫ってくるものだった。





ルネサンス絵画やフランドル派、あるいはシュールレアリスムの画家の作品のコラージュによって織りなされたアニメーションは、スターリン時代の監視社会への告発が寓意されるとともに、宗教的な寓意(救世主の復活)も込められたカタストロフである。だが、その表現は単に反体制というわけではない。シャガールやキリコ、アルチンボルド、ボスなどの異形の表象は、聖者によって清められる対象として描かれる。そうして現れるのは肉感溢れる身体であり、古典的な美しさなのである。この表現には単に反共、というだけでない複雑な意味が込められているように思われた。そして、これらのコラージュにシュニトケの多様式主義が見事にマッチするのだから素晴らしい。チェレスタやハープの使い方には後年の《合奏協奏曲第1番》とのつながりを見いだせるし、とても興味深い作品。映像の物語的展開と、音楽が絶妙に噛み合った仕事だったと思う。演奏後、顔を真っ赤にしたフルジャノフスキーがシュニトケのスコアを高く掲げた瞬間に、こちらにもこみ上げるものがあった。





だが、休憩後のビル・ヴィオラとヴァレーズのコラボレーションは、はっきり言ってダメなコラボレーションの典型だったように思える。まず、ビル・ヴィオラの作品のインスタレーション性というか、反復性がヴァレーズの音楽とものすごく食い合わせが悪い。むしろこの映像ならスティーヴ・ライヒの《砂漠の音楽》だったのでは。水や火、土、空気(空)などの「元素」の映像やハイスピード撮影を使用した視覚のイリュージョンは、ビル・ヴィオラらしいのだが音楽と組み合わさって何かがあったか、というと何もない。これをアンサンブル・モデルンが依頼し、日本以外では何度も再演されている、というのだから驚きだ(作家と作曲家のネーム・ヴァリューだけで演奏されているようにしか思えない)。これだったら美術館や映画館などで、大きなスクリーンでデカデカと大きく映像を投射して、シャイーが録音した全集の音源を同時再生しておけば済む話だろう。これと対照的にフルジャノフスキーとシュニトケの作品は、生のオーケストラによる演奏の一回性の迫力が、アニメーション映像の反復性を乗り越えて、今・ここで演奏されている凄みを生み出していた。コンサート・ホールで聴くのであれば、私はそうしたものを望みたいと思った。






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(映像はスティーヴ・ライヒの《砂漠の音楽》)





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