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8.15 フェスティバルFUKUSHIMA!に参加していました



8月15日に福島で「8.15 フェスティバルFUKUSHIMA!」という野外フェスティバルが開催されました。このイベントは四季の里という公園と、あづま球場というスタジアムの2か所を使用した大規模なものです。この規模のイベントが福島で開催されるのははじめてだったのではないでしょうか。イベントについて知ったのは、地震のあとにあった新宿PIT INNでの大友さんのライヴのとき。MCで大友さんは「遠藤ミチロウさんから電話があって『大友くん! 8月15日に福島でフェスをやろうよ!』と言われた」と語っていました。そのときはイベントの主催となった「プロジェクトFUKUSHIMA!」のプロジェクト・メンバーに自分の名前が加わるとは想像していませんでしたが、縁があってそういう事態となり、8月13-15日までイベントの準備や会場スタッフのお手伝いをしてきました。フェスティバルというと華やかなお祭り、というイメージを持たれるかもしれませんが、その華やかな舞台を支えているのはひたすら大変で、地味で、疲れる事務仕事。本業を抱えながらこれらの激務を処理していた福島のスタッフから比べれば、本当にわずかなお手伝いしかできませんでしたが、貴重な体験ができて良かった、と思います。





そもそもボランティアに参加する、という経験自体、自分にとってははじめてのことでした。むしろ、これまではボランティアには消極的な態度・意見を持っていたと思います。「ボランティアで貢献するより、自分は自分の本業を一生懸命やって、それで社会に貢献するよ」というような。そこには「俺がやらなくても、誰かがやってくれる(俺には別なやれることがある)」という考えがある。でも、一旦ボランティアに参加してみると、逆に「ここは俺がやらないと、誰もやってくれない」と思いながら仕事できる瞬間がある。これは不思議でした。ボランティア・スタッフの数が不足していた、という現状がそういう心理に作用していたのかもしれませんが、普段は絶対やらないし、やりたくないグチャグチャに捨てられたゴミ箱のなかの分別とか汚れ仕事も気にせず取り組めるように思えたのですね。ボランティアに取り組んでいるあいだだけは、異様に徳の高い人間になる、みたいな。





でも、その一方で、そうしたグチャグチャに捨てられたゴミ箱や、好き勝手な場所で煙草を吸う人の姿には複雑な気持ちにさせられました。「自分ひとりぐらい良いだろう」という気持ちを見せられてしまった気がします。そうした人たちを糾弾するつもりはありません。みんながみんな善人であって、ルールを守ってくれるような世の中なんかあり得ない、と思いますし。しかし、ルールを守れなかった人が残していったものを処理する立場にたってみると、人の振り見て我が振り……といった具合に自分の普段の振る舞いを反省したくなります。「自分ひとりぐらい……」という気持ちでおこなわれる違反は、誰かがその尻拭いをしなくてはならない、のです。その誰かの気持ちを考えたらもっともっとキレイなイベントができたんじゃないかな、と思います。





「音楽やアートの役目のひとつは、現実とどう向き合うかという視点を人々とともに考えるところにあるのではないでしょうか」という大友さんの言葉にあるように、来場者もひとりの参加者として現実を考えるためのイベントだったはずなのに、まじまじと嫌な現実を見せられてしまったような気分になります。もちろん、そうした完全《お客さんモード》の人たちは一部分だったのでしょうけれど「自分ひとりぐらい良いだろう」感は、原発の問題を自分の責任として考えられない人々の姿とリンクして考えられてしまって、余計に重かったり。





とはいえ、無事にイベントが終わって良かったです。ライヴのほうはほとんど観れませんでしたが断片的に聴くことのできた、即興オーケストラのすさまじいエネルギーや、YMOのカヴァー、ムーンママ、向井秀徳、静寂などはどれもハートを揺さぶるパフォーマンスだった。プロジェクトはこれが終わりではなく、むしろはじまり。今後自分がどういう形で関わっていけるかわかりませんが、できる限りのお手伝いはしていきたいと思います。





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