スキップしてメイン コンテンツに移動

聖トーマス教会合唱団 & ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 @東京オペラシティ コンサートホール


J.S.バッハ:マタイ受難曲

ゲオルグ・クリストフ・ビラー(指揮 / トーマス・カントール)
ウーテ・ゼルビッヒ(ソプラノ)
シュテファン・カーレ(アルト)
マルティン・ペッツォルト(テノール/ 福音史家)
マティアス・ヴァイヒェルト(バス)
ゴットホルト・シュヴァルツ(バス)

恐ろしく久しぶりに海外オケの来日公演へ(おそらく高校時代に地元、福島で聴いて以来)。ゲヴァントハウス管の来日公演は、数年前リッカルド・シャイーの急病キャンセルで聴きそびれた記憶があるので念願かなって、という感じでした。ゲヴァントハウス管には近年シャイーによるマタイの優れた録音がありましたし、とても楽しみでした。

今回の指揮者のゲオルグ・クリストフ・ビラーは聖トーマス教会合唱団のトマスカントールで、普段から教会の礼拝や儀式を取り仕切る仕事をしている人物。シャイーの録音で聴くことできるモダンとピリオドのいいとこ取り的な演奏とは違い、合唱主導の厳かな演奏を聴かせてくれました。出てくる音、ひとつひとつに温度を感じますし、随所に現れるヴァイオリン、フルート、オーボエのソロにはオーケストラの上手さを圧倒的に示すものだったでしょう。ファゴット、チェロ、コントラバス、ヴィオラ・ダ・ガンバも見事でした。ソリストは福音家のマルティン・ペッツォルトが圧巻。

合唱団も流石の出来。最後のコーラスでは小さな男の子が明らかに挙動不審になっており(トイレを我慢していた可能性がある)かなり心配になりましたが、隣の年長の男の子が優しく自分の楽譜を見せてあげて「今、ココだよ」と教えてあげている姿が見られ、音楽そっちのけになりつつも大変心温まりました。ちょっとウィーン少年合唱団の人気が理解できたかも。

ありがたかったのは今回の公演が日本語字幕付きだった点。マタイによる福音書のテキストをもとに書かれた作品である、ということはもちろん承知していましたが、実際にそのテキストと相対しながら楽曲を聴くのは今回が初めての機会になりました(これまではテキスト抜きの、純音楽作品的に聴いていたわけです)。「《マタイ受難曲》は壮大な人間ドラマである」。今回はこうしたクリシェを字幕によって充分理解できましたし、有名な「ペトロの裏切り」の箇所では落涙を禁じ得ませんでした。これをやられてしまっては思わずプロテスタントに改宗、聖書のドイツ語訳をおこなったマルティン・ルターも浮かばれるであろうこと間違いなし。

特に、少年合唱に与えられる役割、安らぎをもたらす天使的でもあり、処刑されようとするイエスを汚く罵る民衆でもある、この二面性にやられます。福音家の叙述に導かれて飛び出す罵倒の言葉、それが極めて美しい声によって響く。この引き裂かれた美しさに聴き手はショックを受けるわけです。聴いてるウチに「今度はどんな酷いことを!?」とM属性も高まってくるわけですが。

また新約聖書の言葉について、イエスという存在についても考えさせられました。イエスはユダやペトロの裏切りも予見してしまうし、あらゆる罵倒や裁判時の不利な証言にも反抗を行わない。その代わり「お前はイスラエルの王なのか」とピラトに問われたイエスは「それはあなたがたが言ったことだ」と返します。ここにイエスの特異な他者性のようなものを感じました。

まるで鏡のように相手の行動を予見し、言葉を返す。イエスには何もかもがお見通しなわけで(彼がそうではないのは『エリエリレマサバクタニ』と叫ぶその瞬間だけのように思われます)、お見通しであることがイエスに対する人物に理解されることにより特異な関係性が生まれる。それはつまり、何もかもがお見通しな他者とは、果たして他者なのであろうか、もはや他者とは呼べないのでは、ということです。イエスが人々の罪を背負って死ぬことができたのは、これが理由だったのでは、とか考えました(フロイトの『モーセと一神教』みたいですね……)。


マタイ受難曲
マタイ受難曲
posted with amazlet at 12.02.29
礒山 雅
東京書籍(株)
売り上げランキング: 15908

これも読んでみたくなりました。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...