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ニクラス・ルーマン 「経済的な行政行為は可能か?」(2)

(承前)

価値観点はダメだ! となると、量的な評価基準を採用するのはどうだろう、という検討が次におこなわれます。結果間の比較を統一的な価値尺度、例えばお金、の大小比較によって最適性を導き出してはどうか、ということですね。しかし、ここにも可測性の限界があるとルーマンは指摘しています。量的な評価をおこなうといっても、すべての結果が同一の測度で量化なんかできないでしょ、というのがここで問題になるのですね。家を建てたときの便益と、物置を建てたときの便益をお金に換算なんかできないでしょ、と。仮にそうした数値化が可能な数式があったとしても、そんなのイチイチお役所でやってたら「経済的な決定の計算にかかる費用が高すぎる」 = 合理的な決定をおこなうことが非合理になってしまう。この部分、とても面白いんですが、この論文が書かれた1960年時点と現代では計算コストはかなり下がってるのでなんでも数式化できたら必ずしも非合理にならないような予感もする。

価値も量もどっちもダメなら両者を組み合わせるというのもダメ。「ある部分については価値によって質的に比較し、別の部分については量的に比較するというのでは、完全に恣意的だと言わざるをえない」というのがその理由になります。もう最適化決定モデルはどうやったってまるごと役に立たん、というわけですね。第一、結果を比較するには二つのパターンしかないわけです。特定の手段を前提として、何が結果として考えられるか。それから、目的を固定したうえで、どんな手段があるか。どちらかの観点に固定しなければ比較は不可能でその観点の選択がすでに恣意的になってしまうのでよろしくない。また、あらかじめ前提を決めても比較対象が多過ぎて決められないし、どの時点、あるいはどの程度の期間の結果を考えるのかによっても変わってくる。

もうここまでで大体話が見えてきましたが、いろいろ複雑なもんであらかじめ最適な方法を選択するなんか無理、というのがルーマンの見立てになっています。ただし、最適性を捨ててしまうと、どんなことでも決定された時点で経済的、というわけのわからないことになってしまうので経済性は保持したい。そこでルーマンはハーバート・サイモンの提案を検討します。

まずは決定とはどのような過程でおこなわれるかを再検討。すべてを比較するのは不可能なので検討すべき結果を絞り込みます。そもそも重要じゃない結果は考慮から外す。残ったものは「中立化した結果枠」のなかに残り、そして決定の際には手段か目的かのどちからじゃなくて、両方があらかじめ決まっている。すると、決定のデメリット、別なことをやってたら得られた別な利益は思考の範囲外となる。こうしたプロセスはすでにプログラム化されている、とルーマンは指摘する。改めて言われると難しい感じがするが、普通だ……。次のルーマンの記述も普通だが、改めて言われるとなんか面白いので引用しておこう。

このプログラム化と結果の中立化というのは、実は行政の現場では誰でも知っている日常的な現象である。これは予算という制度のためである。たとえばある役所に、学校新築の名目である金額が割り当てられた場合、役所としてはこの予算を手段として、金額の許す限り豪華な学校を建設することが、可能であると同時に義務(!)でもある。学校をもう少し質素なものにすれば消防署にもう一台消防車をを入れることができるのに、などと考えることは許されない。だから財政年度末が近づくと、出張費は不足しているのに局長室の絨毯はすぐに新調されるといった事態が起こることになる。

これで決定プロセスは実践に耐えうるようになる。決定者が考慮すべきことは与えられた手段(予算)でどれだけのことをするか。そして目的がどれだけ具体的なものかに限られてくる。ただし、ここに問題がたくさん含まれているのは明らかだ。すでに触れている特定のイデオロギーの問題がでてくるし、そもそも予算をどうやって決めるんだ、という話にもなる。私企業ならまだしも、行政ではダメだ。ここではそのダメなところがいろいろ例示されているんだけれど、今お役所というところに投げかける批難と通ずるものがあって、面白いです。

(続きます)

追記:ニクラス・ルーマン 「経済的な行政行為は可能か?」(3)

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