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Beryl Smalley 『Study of the Bible in the Middle Ages』

Study of the Bible in the Middle Ages
B. Smalley
Univ of Notre Dame Pr
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聖書、ここでは比喩ではなく、とくにキリスト教の教典である、あのテキストぐらいの有名なものともなれば、オリジナルのものが大昔から代々受け継がれてきたもの、のように思いがちです。しかしながら実際にはそうではなく、旧約聖書も新約聖書も、さまざまなテキストがいつのころからか、ひとまとまりのテキスト群として扱われ伝えられて今に至っているわけで、これはなんだか出所がぼんやりしたもの、と捉えられる。そのホンモノ、正真正銘のオリジナルはすでに失われており、現在普通に流通している聖書はかつての宗教会議などで「ひとまずこれを正典としておこう」と定められたものでしかありません。

ローマ・カトリックが用いるウルガータ聖書はラテン語訳なのも考えてみれば不思議な感じがするんですよね。あんな立派な宗教で、権威がありそうな人たちが「翻訳」に頼っている。神の言葉は何語でもかまわないのかもしれませんが、それが「原典」ではないのは、軽く心にひっかかる。果たしてそれは本当に正しいテキストなのか。そしてそれがたとえ正しく伝わっているテキストなのだとしても、たとえば旧約聖書の、物語とも、巨大な家系図とも、寓話集とも読める内容をどのように読めばよいのか。世界でもっとも有名な本のひとつでありながら、聖書は結構つかみどころがない。

イギリスの歴史家、ベリル・スモーリー(1905 - 1984)が1940年に発表した『Study of the Bible in the Middle Ages(中世の聖書研究)』という本は、西欧、とくにイギリスとフランスの修道士たちが中世のあいだに、このつかみどころのない本に対してどのような取り組みを重ねてきたのかを記したものです。

そこでは、聖書の記述が歴史的な事実なのか、それとも道徳的な教えを伝えるための寓話のあつまりなのか、など、聖書をどう読むかでどの立場をとるかで論争がある。あるいは、ユダヤ人たちと交流をもち、ヘブライ語を習ったり、ユダヤ教徒だけに伝わるもっともオリジナルに近いであろう解釈をキリスト教のなかでの聖書解釈に輸入しようとするアプローチもあれば、または、聖書の内容を日々の説教のなかでどのように表現し、伝えるのかのスタイルにもさまざまな違いがありました。

スモーリーが本書で描いた、聖書をめぐっての「読み、そして伝えていく歴史」は、そこに、なんだかよくわからないテキストに対する、原初的な情熱を帯びた探究心があったことをイメージさせてくれます。いま、わたしの家には、学習用国語辞典ほど分厚い聖書(新改訳版。ちなみに旧約聖書の後半のほうまで到達したまで、読み始めて3年ぐらいたってもまだ全部読めてない)がありますが、この本もそうした営みの延長線上にあるのかと思うとなんともロマンティックではありませんか。

中世の聖書解釈における重要人物などでもほっとんど知らない人物ばかりなので、なかなか読むのがしんどい箇所はありますが、終盤、アリストテレス主義がこの営みのなかでどう関わったのか記述した部分は急に盛り上がる感じがしますし、修道士たちの勉強模様なんかは端的に面白い。ところどころにラテン語がそのまま引用されている箇所があるので、ちょっとでも勉強しておくとより良いでしょう。古い本だけど英語自体はそんなに難しいとは思いませんでした。

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