物語は作家(バルガス=リョサ)自身が、故郷から遠く離れたフィレンツェ(ダンテが生まれ、マキャベリが活躍し、ルネサンスの文化が花開いたメディチ家のお膝元)で、ギャラリーに足を踏み入れ、そこでアマゾンに住む部族を撮影した写真を偶然に目をする。そこには(決定的な確証はないものの)学生時代に交友を結んだ友人の姿らしきものがあった。現在のフィレンツェ、若かりし頃育んだ友情の過去の回想、密林に調査に入った記憶や記録、そして写真に写っているらしい友人がアマゾンの奥地で、ある部族の《語り部》となって生きる姿(想像)……時間軸や視点をさまざまに移動しながら語りは進んでいく。
このうち、語り部のパートがなかなか読みにくく、部族の神話と意識の流れの混濁したような文体で書かれている。時間軸や視点の移動は『ラ・カテドラルでの対話』でも見られた手法だし、こういうテクニックの盛り込み方はこの人の作風なのだろう、と思う。ただこうした技巧的な凝りに対して、書いてあることはとても単純なのだ。密林に調査にいった作家は、調査隊に同行している宣教師や他の研究者たちが、西洋的なヒューマニズムの精神(善意のおせっかいのようなもの)によって、部族の文化を汚染していることにある種の欺瞞を感じている。
《語り部》となっているらしい友人は同じく欺瞞を抱き、めちゃくちゃに怒りまくった結果、《語り部》へと同化していくわけだ。解説にある言葉を借りるならば、「野蛮から文明へ」という欺瞞に対する「文明から野蛮へ」という反抗がある。友人は元ユダヤ教徒のユダヤ人であり、顔半分を痣で覆われたことで差別を受けるマイノリティー(そしてマージナル)の人物だったから、野蛮の方向へ同化が生まれた……ということなのだが、なんかそれって貧乏な身の上のおかげで、金持ちを憎むようになった、みたいな話だと思う。
たしかに、こういうのってノーベル賞向きのテーマではある。ただ、彼が欺瞞だなんだという指摘を真っ当に受けてしまう人は、そもそもそういう視点が「イルカは賢いから守りましょう」と同じ図式であって要するに「土人の文化も尊いから守ろう、大切だよ」と言ってるのと同義だと気付いていないんじゃないか。同時に、この作品は、フィレンツェから語りはじめるおしゃクソ文化人が抱いた故郷への感傷に他ならないんだ。
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