スキップしてメイン コンテンツに移動

アドルノの切れ味




プリズメン―文化批判と社会
テオドール・W. アドルノ Theodor W. Adorno 渡辺祐邦 三原弟平
筑摩書房 (1996/02)
売り上げランキング: 108,073


 アドルノの自選エッセイ集を読む。この『プリズメン』にアドルノ唯一の名言*1と言っても良い「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」という言葉が書かれているのだけれど、まぁ、現在の私の研究領域とはあんまり関係がない。とにかく意味が汲み取りにくい言葉をわざと書く人だから、苦労するんだけれど面白く読んだ。特に「産業が文化(芸術)を飲み込んでいる」という状況を批判するところがいくつも見られるのだが、そこにはボードリヤールの先駆け的なところもある。最近、ガシガシ新訳・復刊が続いているので「デリダが……」とか「消費社会が……」とか言ってる人にも読んで欲しいものです。ポスト・モダンとか言う前に「最後のモダニスト」みたいなアドルノを……と思う。





 (アドルノのエッセイに関する常套句みたいなことだけれど)エッセイといっても「随筆」とかではなくて「哲学的エッセイ」のようなもの。「問いがあって、調査があって、考察があって……」みたいな論文という著述スタイルではなくて、アドルノはこの「エッセイ」を自らの著述スタイルにしている。そこには明確な「問い」や「目的」といったものが見えにくい場所に置かれている。だから読んでいて「えー、なんでいきなりこんな話になっちゃうわけ?」という疑問が読者の前に浮かぶ。当たり前である。アドルノは大体「○○という意図を持って文章を書きます」といった前置きをしないんだから。前戯無しの酷いセックスみたいにバリバリと自分が考えたことを、難しい文章で書いていく。





 「そりゃあ敬遠されるわな」という感じなのだが、その「意図の不明さ」や「難しさ」といったものは、私には「書き手-読み手」という関係をフェアなものにしているように思われる。「意図」の部分(『意味』におきかえても良い)においては特にそう。分かり難く書くことによって、必然的にそこには「誤読」の可能性が生まれるし、一種の隙間が生まれる。「真のアドルノ像」なんて浮かばないのは当然の話だ。けれども、その統一的な真のアドルノ像を作らせないことこそ、アドルノの目論見だったんじゃなかろーか、なんて思う。「アドルノは○○と言っている」と何か枠組みにはめようとする。必ずそこからは零れ落ちるものがある。何らかの対象物を囲い込んでいくことの暴力をアレルギー的に忌避しているかのようにも思える。





 「言っていることの分からなさ」の点でアドルノの切れ味は鈍いものとなる(誰だって分かり易いものには惹かれるだろうし、単純なもののほうがスッキリとしていて気持ちが良い)。しかし、アドルノは鈍いけれど、じんわりとボディブロウのように効いてくる。回り道して何度も読むうちに必ずアドルノを分かる日が来る気がする。たとえそれが学問的なアドルノ像から外れてたとしても、しかし、その「誤読」が許されている寛容さがある気がした(アドルノ自身の言ってることは最高に厳しいけど)。





 内容に触れるのを忘れて長々と文章を綴ってしまったけれど、私にとってこの本に含まれたバッハ論とシェーンベルク論は感動的で、どちらも読んでいて涙が出そうになってしまったほどである。特にバッハ論に関しては、音楽を広く聴き、語ろうとするものであるならば一度は読んで欲しい大切なことが書かれていると思った。それは前述したアドルノの読み方とも関係してくる。私が言ってんだから全然信用しなくて良いし、解説に書いてある「読み方」とも異なってくるけれど、アドルノが「○○のバッハは正統的である」というような言説を否定していることは、演奏家にとっても重要なことだ。




*1:割と有名な言葉といった意味で





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...