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ベートーヴェンの晩年様式












 私は普段マニアックな音楽(20世紀音楽とかソ連の作曲家とか)についてばかりブログ上に書いているけれど「ベートーヴェン」みたいに有名な作曲家も好きなのである。こういうことを言うと結構驚かれたりするんだけれど、どメジャーな作品である交響曲第9番《合唱付》なんか葬式で流して欲しいぐらい大好きで、っていうか「ベートーヴェンの作品ならなんだって好き!」と胸を張っていえるぐらいだ(初期の「ほとんどハイドンだよね」っていうピアノ・ソナタだってかなり繰り返し聴いた)。さらに熱くベートーヴェン愛を語らせていただくならば「いやー、やっぱり晩年の作品群が最強だよね!」ということになる。特にベートーヴェンが第9以降に書いた作品、一連の弦楽四重奏曲は凄すぎて何度聴いても鳥肌が立つ。こんな人間がかつて存在していたこと自体が驚きである。





 「何をそんなに……」と思われるかもしれないが、最晩年のベートーヴェンが、それ以前の「音楽の革新者」的なベートーヴェンとは全く別人のような作品を書いていることが私にとって一番の驚きなのだ。ベートーヴェンによる音楽の革新。例えば《エロイカ》、《熱情》、《ハンマークラヴィーア》でベートーヴェンは時代の音楽を新しい領域へと進ませている。けれども、晩年の作品群においてはそのようなモダンな前進は試みられない。というか、ベートーヴェンは徹底して伝統的な書法へと立ち返り、その探求へと励むのである。それが最も突き詰められているのは《大フーガ》。これは文字通りフーガによって書かれた長大な作品だけれど、その厳格さや複雑さはまるでバッハに挑むような態度さえ感じられる。





 しかし、それらの作品群は言ってしまえば「時代から切り離されている」。後に作曲者が献辞の言葉を黒く塗りつぶしたとしても《エロイカ》には、フランス革命やナポレオンといった「風土」が色濃く残っているし、また《悲愴》、《熱情》といった主観的なタイトルの作品はロマン主義の息吹を感じさせる(しかし、最もロマン主義的なのは第九の第4楽章なのだけれど)。けれども、最晩年の作品からはそういった具体的なイメージを喚起させない。ただ音楽だけがそこにあり、あたかもベートーヴェンがブラックホール的な「時間の消失点」の中で仕事をしていたみたいである。ある種の「悟りの境地」というか。そんな風に仕事ができた人なんて、音楽史上にバッハとベートーヴェンぐらいしかいないんじゃなかろーか……、っていう点で私は「すごいなぁ、ベートーヴェン」と常に敬服しているわけだ(もちろんバッハも)。







 冒頭に挙げた動画はベートーヴェン最後の作品である弦楽四重奏第16番の第1楽章(演奏はハーゲン四重奏団)。素晴らしい動画を見つけた喜びでこんなに長々とベートーヴェンについて語ってしまいました。


http://www.youtube.com/watch?v=5n6IvgIleo8


http://www.youtube.com/watch?v=DYvIXbop3pA


http://www.youtube.com/watch?v=ka7sWEc6mZ0


 続きは↑。全体的にたっぷり歌いこみつつも、決して饒舌になり過ぎない端整な演奏で好感が持てる。特に第4楽章、2回目の"Grave, ma non troppo tratto"から一気にテンポをあげるところがカッコ良い。



ベートーヴェン:弦楽四重奏曲
ハーゲン弦楽四重奏団 ベートーヴェン シューベルト
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 CDは現在廃盤の模様。



ベートーヴェン : 弦楽四重奏曲 第15番 イ短調 作品132
グァルネリ弦楽四重奏団 ベートーヴェン
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 別な演奏であればグァルネリ弦楽四重奏団の演奏がおすすめ。





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