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田中仁彦『ケルト神話と中世騎士物語―「他界」への旅と冒険』





 実家で読む本が無くなったので、本棚から探してきたもの。ブックオフの100円値札シールが貼られいて、高校生の頃に買った記憶があるのだけれども最初の3ページぐらいしか読んだ記憶が無い(今ではどうしてケルト神話の本などを買おうと思ったかも思い出せない)。読んでみたらかなり退屈だったけど、まぁまぁ面白かった。


 ケルト人というのは歴史学上、結構謎な民族だったようである。ケルト人の国には鉄製の武具を装備した勇敢な戦士たちがそろっていて、一時はローマやギリシャを脅かし、ヨーロッパ全域を支配化におくほどの勢力を持っていたにも関わらず、ローマの逆襲やゲルマン人の大移動のあおりを喰らい、いつの間にかケルト人は歴史の表舞台から姿を消してしまうのである。しかも、文字を持たない民族だったからケルト人たちが隆盛を誇っていたころの歴史は、ローマやギリシャの歴史家によって書き起こされたものを頼りにしているのだとか。


 面白いのは、外部勢力からの支配下においてケルト人たちは支配者への「同化」を行っていること(現在では、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、それからフランスのブルターニュ地方などに住んでいる人たちが「ケルト人の末裔」と呼ばれている。同化する過程において文字を取り入れていったらしい)。さらに、民族の世界観の根幹を成す「神話」も、同化する対象であったキリスト教やローマ神話などと共存が図られているのは注目すべき点だろう。


 ケルト神話の「オリジナル」は口承だったから、文字で残っているのは外部から来た修道士たちによって書き起こされたもの。この時点で、ケルト神話にはキリスト教の影響が見られる。元々ケルト人が抱いていた宗教・神話的な世界観が、キリスト教と通じるものがあった、と言えども歴史の変化に応じて、神話にどんどん「バリエーション」が生まれ、外部から来た神様を取り込んでいった、という再生産が行われている。


 同化によって民族的アイデンティティを失ったように見えて、こういう神話の再生産が民族的アイデンティティの延命に繋がっていたかもしれないけれど、こういった事象は大塚英志の『定本 物語消費論 (角川文庫)』での議論が思い起こされた。しかし、仏教の世界も色んな神様が出てくるし、オリジナルへのこだわりの無さでは似ているように思われ「ケルト人たちの特筆すべき点」とは言えないかもしれない(ブードゥー教もキリスト教とアフリカ人の信仰の融合だしなぁ)。


 あと、同じ「亡国の民」でもケルト人とユダヤ人との間にある大きな差について考えをめぐらすのも楽しい。一方は同化を行って、神話をどんどん作り変えていく。一方は同化を拒み(もっとも近代になってから『同化政策』は行われたわけだが)、『旧約聖書』というオリジナルに拘り続けている。これは、一方は「ずっとグローバリズム」だし、一方は「ずっとローカリズム」とも言い換えられる。今、「グローバリズムが云々」とか言うけれど、大きな歴史を眺める観点に立てば「別に今に始まったことじゃないよね」とか思ったりした。





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