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批判の種類と用法について



 世の中には届く批判と届かない批判の2種類の批判がある。「効かなかったら意味がない!」と道場にハイキックの轟音を響かせた後、佐山が語ったように、批判についても有効性を問わなくてはならない。批判もまた「効かなかったら/届かなかったら」意味を失うのだ。文芸誌に寄稿する批評家が「今の中高生はケータイ小説ばっかり読んでるんだって?世も末だな」と批判した、とする。しかし、それは批判としての意味を形成しない。そもそもケータイ小説を実際に読んでいる人は文芸誌なんて読んでいない。よってお、そのような批判的な文章は、同じように「世も末だ」と思っているごく限られた読者の共感を集めることしか出来ない。


 コメント、ブックマーク、トラックバック……そのようなものを通して、批判は直接届けられる相手がいる、ということは少なくとも「有効性のある批判として批判が意味を持つ」ということを容易にしている。「あなたの文章は不快だ。暴力的だ。そのような文章があっていいはずがない。だから、あなたは即刻文章を書くのをやめるべきだ」。このような文章が届けられ、受理されたとき、批判は批判者にとって最も好ましい形で機能したことになる。

 多くの場合、批判とは「自らが正当化しているもの」が「なんらかの暴力的な行為によって」「おびやかされたとき」に、「批判者の不快感を伴った言葉として」、発声されるように思われる。「純文学が読まれないのに、ケータイ小説が読まれているのはおかしい(不快である)」、「不快な文章が人気を集め、私の目に入りやすくなっている(不快である)」、「みんな鈴木早智子のことを忘れている(不快である)*1」……etc、これらの例では、批判者にとっての「ケータイ小説」、「不快な文章」、「鈴木早智子の忘却」は、自身を脅かす暴力的な存在となっている。このとことから批判には、このような暴力を抑止する効果がある、と言えるだろう。


 ただ、届けられる批判であっても、それが批判と呼ばれない場合が存在する。批判者が「不快だ」と感じる価値観/生理的原則が、批判を被ったものではない、第三者に共有されていない場合である。このとき、批判者は批判者ではいられない。単に「理不尽な要求をする困った人」として片付けられてしまうのだ。また、批判者にとっての暴力を抑止する、ということは、被批判者にとっての暴力でもある。「このように可哀想な私が不快になっていいはずがない」という批判者の無根拠さは、同時に「書きたいものを書いてはいけないはずがない」という返答を誘発する可能性がある。このような返答が、最初の批判者にとって、さらなる不快を呼び起こし、さらなる批判(今度はもっと暴力的かもしれない)を生み出す。


 ここまで「届かない批判」と「届く批判」という2種類の批判について考えてみた。これらのふたつを言葉を変えながら、少し整理してみるとこんな風になると思う――「届かない批判」は「嘆き/愚痴/つぶやき)」と言い換えられるし、「届く批判」は「クレーム(非難/要求)」と言い換えられる――というように。さて、ここで一旦「届く/届かない」という分類をやめてみる。もう少し性質の異なった批判が出てくる。それが「分析する態度としての批判」である。おそらく、批判理論が根ざしていた批判とは、このような種類の批判であろう。


 マックス・ホルクハイマーやテオドール・アドルノといった批判理論を代表する思想家――これはほとんどフランクフルト学派の思想家と同義である――がおこなった、批判とは「劣悪な文化産業への嘆き」や「近代の放棄という要求」を意味していない。カール・マルクスの著作に強い影響を受けていたこと、あるいはホルクハイマー/アドルノの共著による『啓蒙の弁証法』に近代社会への批判が含まれていることなどが「批判理論」という言葉の意味を大きく捻じ曲げているように思われるのだが、おそらく彼らはそのような嘆きの無意味さや、要求の暴力性に自覚的であった。


 彼らが批判を行うときの目的とは、分析にある。批判による社会の分析。それは写真のネガをわざわざ提示するような行為である。「近代にはいって、技術が向上し、大量生産が可能となり、便利な道具が手に入りやすくなった」というようなポジだけを見せることで分析は完成しない――「近代に入って、技術が向上し、大量生産が可能となったことによって、人間もまた道具のように扱われるようになった」というネガを補完することによって、初めて分析は達成される。


 そのような分析がいったい何になるというのか――前述したように、批判理論は「社会の変革(ユートピアの実現、前近代への回帰)」を要求していない。分析は分析に他ならず、その目的もまた分析である。近代を批判し、哲学を批判した批判理論の近代性と哲学的性格は、このような自己言及的な自己目的性にある。他に何らかの意味があるとしたら、批判理論的な分析とは世界の豊潤さを取り戻すためにおこなわれていたことが言えるかもしれない。


 「世界は○○である」というポジに対して、「世界は××だし、もしかしたら△△かもしれない」というネガを布置することによって、ポジには写らなかった世界の色が補完されていく――「ジャズ愛好家のマゾヒズム的性格は……云々」といった分析は、「とか言ってみるテスト」的なものであったようにも思えてくる。というか、そのようにしてでしか批判は暴力性を回避できないような気がする。




*1:すいません





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