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プラトン『パイドン――魂の不死について』




パイドン―魂の不死について (岩波文庫)
プラトン Plato
岩波書店
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 プラトン強化期間の一環として読む。こちらは死刑宣告を受け、投獄されていたソクラテスのもとへと、ついに死刑執行の日がやってきて、その直前におこなわれた弟子たちとの問答を収録した作品なのだが、その劇的な設定も良くて大変に楽しく読んだ。刑の執行直前にソクラテスの前へと現れる、刑務委員の下役が「あなたほど高貴な人間はいませんでした」と伝え、涙を流すシーンなど美しい。肉体は魂の重荷に過ぎず、魂をより良くするには肉体を捨てなくてはならない(=死ななければならない)。だから哲学者は早く死ぬことを望むのだ……などなど、結構スピリチュアルな内容も満載なのだが、プラトン入門には『パイドン』をオススメしたいかもしれない。岩波文庫版は訳も新しい。





 議論の中心となっているのは副題にもあるとおり「魂の不死について」である。ソクラテスがさまざまな方面からこれを証明していくのがこの対話篇の主旋律といえるだろう。「最終証明」にたどり着くまでの道のりを大変大雑把に示しておくと、想起説からイデア論まで、ということになるだろうか。プラトン曰く、イデア界という別世界があり、魂もその世界からやってくる。しかし、現世界において肉体に宿った魂は、イデア界にいたときのこと一時的に忘れてしまっているのである。だが、現世界での魂は少しずつ、イデア界にいたときにイデアに触れていたことを思い出していく(それが学習という過程なのだ)。魂はアプリオリに学習する内容を身に着けている、ということがここでは前提とされる。学習とは新しいことを覚えることではなく、思い出すことなのである。例えば、我々は身長が違う二人の人物が並んだとき「どちらが背が高いか」という判断を即座におこなえる。このとき、我々は身長の「高さ」というイデアを認識しているからこそ、そのような判断を行えるのである。しかし、そのイデアを認識する方法を我々はどこから学んだのであろうか? それを証明することはできない。そうであるならば生得的にその認識力を授かっていなければ、おかしいではないか!





 説明すれば説明するほど、第七次元宇宙にアセンションしてしまいそうなのだが、ここでソクラテス(プラトン)が言う「イデア」という考え方は大変に面白い、と思うのであった。実際のところ、「イデアってなんですか? 」と訊ねられたら、ちゃんと説明できる自信はないけれども、ここでは認識の根源となる本質のようなものがイデアと呼ばれているのであろう、と思う。



あるものよりもより大きい場合にはすべて、他ならぬ『大』(のイデア)によって大きい(と判断される)のであり、この『大』がより大きいことの原因である。



 上に引用した箇所(括弧内は私による補足)を読んで、頭がモジャモジャの脳科学者の人が「イデア論はクオリアなんですよ」とかなんとか言う根拠のようなものがつかめた気がする。





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