プラトン強化期間の一環として読む。およそ二ヶ月ほど前からこの催しを継続しているが、ついにいわゆる「後期プラトン」に入ってしまった。読んでいない作品も多々あるが、次に『法律』を読んだら、一旦プラトン強化期間は終了し、アリストテレス強化期間に入りたい(そもそもこういった試みは高校生とか大学生とかの頃にやっておけば良かったなぁ、とか思うが、もはや後の祭りである)。で、『テアイテトス』であるが、これはこれまで読んだプラトンの著作のなかでも、最も難解に感じられた。副題に「知識について」とあるように、ここでは「そもそも知識とは何のことであろうか」ということについての議論がおこなわれているのだが、その議論において、これまでのプラトンの著作であったように「魂を良くするためにはどうすれば良いか」といったような倫理的/道徳的問題については触れられず、ひたすら「知識とはどういったものなのか」という議論が続けられる。また、議論は一種の認識論的な領域まで及ぶ。その際、「言語」という枠組みがなければ、認識はできない、みたいな「すわ! 構造主義か!」とか「すわ! デリダか!」といった話が出てくるのだが、なんだか面白く思えなかった。もちろん、その感想は「その問題が、個人的な問題として捉えることができなかった」ことから生まれているのであるが……。知識とは何か、認識とは何か、こういった問題は至極根源的な問題であろう。しかし一方で、それらの問題は(勝間和代流に言えば)「起きていることは、すべて正しい」とも言えるような気がする。そういうワケだから、「この時代の人はこのように考えていた」というような歴史学的な視点を学ぶために、大昔の人の本を読む、という態度はアリだ。というか、そういう風に読んでいたほうが楽しい気がしてきている。
テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...
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