スキップしてメイン コンテンツに移動

シベリウスの交響曲第6番




シベリウス:交響曲第6番&7番、タピオラ
オラモ(サカリ)
ワーナーミュージック・ジャパン (2003-10-16)
売り上げランキング: 94681


 先日の『N響アワー』*1で放送されていたのを聴いて「これは……なんだか素晴らしい作品ではないか!」と思ったのが、フィンランドの作曲家、ジャン・シベリウスの交響曲第6番でした。





 マーラーやブルックナー以上にハードコアなファンが多いこの作曲家のファンは口々に「シベリウスは後期が断然に素晴らしい」と言っているのが、完全に理解できた気がします。触れた途端に崩れ落ちてしまいそうなほど繊細な美しさをもつ第一楽章冒頭からして、気持ちがどこかに持っていかれてしまいます。



D


 いきなりクライマックス直前のような緊張感が呈示されますが、この緊張感はなかなか最高地点まで達することなく、じわじわと適度な快感ポイントを漂います。いつ、絶頂はやってくるのか……!と期待が持続するのですが、いつのまにか次の楽想に移ってしまう。



D


 つづく、第二楽章も似たような感じで進行していきます。音楽は徐々に高まっていくのですが、劇的な絶頂感は訪れることがない。独特な構成に魅了されると、シベリウスの音楽に病みつきになっていくのでしょう。しかし、これは「どこで終わった/終わるのか分からない」という分かりにくさを生むものでもあります。



D


 第三楽章にきて、ドイツ音楽のような劇的な絶頂が訪れる感じでしょうか。「ズズッ、ズズッ」と刻まれるリズムが楽章全体を支配しているのですが、時折、金管楽器が長いクレッシェンドで入ってきて、最後にフォルテッシモで〆るところを聴くと「ああ、シベリウスの音楽ってこんな感じだよなぁ」と思います。



D


 第四楽章。この美しい作品が発表されたのは1923年、時代区分的にはこれもバリバリの「20世紀音楽」なのですね。パリやヴィーンといった音楽文化の中心地では、とっくに無調や≪春の祭典≫スキャンダルが起こっており、前衛がバリバリと活躍していた頃に書かれている。それを考えれば、シベリウスがこのような調性作品を書いたことは「時代遅れ」だったかもしれません。





 しかし、シベリウスも時代の流れとは無関係に作曲活動をおこなっていたわけではありません。これ以前に書かれた交響曲第4番(1911年初演)では、かなり調性感が希薄で晦渋な音楽を書いていますし、そういった音楽文化の中心への意識はあっただろう、と推測できます。だが、シベリウスは、第6番のような「美しさ」を選択した。それは調性という過去へ踏みとどまる、という反動的なものではなく、それが自分の音楽である、という選択だったのだ、と考えると、ますます感慨深いものがあります。




*1:司会が池辺先生から西村朗に代わってから、あまり観なくなってしまいました……





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...