スキップしてメイン コンテンツに移動

A・J・ジェイコブズ『驚異の百科事典男 世界一頭のいい人間になる!』




驚異の百科事典男 世界一頭のいい人間になる!
A・J・ジェイコブズ
文藝春秋
売り上げランキング: 205800



 著者はある日、「『ブリタニカ百科事典』を読破してやろう!」と突然思い立つ。本書は、全32巻、4万3千ページ、項目数が4千4百万語を収録したこの超ボリュームの百科事典に挑んだひとりの男の戦いの記録だ。本書に記されたのは、妻や友人や親戚にバカにされながら、彼はおよそ1年かけて読み通した読書メモであり、そして『ブリタニカ』というひとつの権威から面白い知識ばかりを人力抽出した「要約」となっている。さすがに全32巻からの抽出結果だから、本書も邦訳が700ページ近くある。しかし、超面白くてスラスラと読めてしまった。





 本書の面白さは、単なる読書メモにとどまらず、さまざまなドラマも描かれたところにある。まずは父親との葛藤だ。ユダヤ系アメリカ人の家系に生まれた著者の親族にはインテリが多いのだが(おばさんはポール・ド・マンの同僚だった、という)、著者の父親もその例に漏れず。さまざまな学位を持ち、職業は弁護士で余暇の合間には、せっせと法学の論文を書いている、という立派な人物である。そもそも、著者が『ブリタニカ』を読破しようと思い立ったのは、この父親の存在がある。『ブリタニカ』読破は、父親がかつて失敗したプロジェクトでもあったのだ。それは父親の意思を継承することでもあり、成し遂げられることによって父親を乗り越える試みでもある。





 本書を読んでいるあいだに著者は不妊治療を受けているのだが、これもまたひとつのドラマとして描かれる。当初その試みはなかなか実を結ばないのだが、ある日、念願かなって妻の妊娠が発覚する。ここからがとても面白い。父親とは息子に対して知恵を授ける存在でなくてはならない、と著者は考える。なぜなら自分がこどものときの自分の父親がそうであったからだ。父親はなんでも知っている。それが圧倒的な存在感をかもし出すのだ。著者にとって『ブリタニカ』はそうして父親像に近づくためのレッスンでもある。





 もちろん、抽出された面白知識も最高だ。たとえばこんなのがある。



太平洋北西部に住む先住民のヌートカ族には、死んだ鯨を岸に呼び寄せる儀式をする専門家がいた。



 その名も鯨祈祷師(なんだそれは……!?)。こうした驚くべき知識に触れるたび、著者は狂喜したに違いない。私にはその気持ちがすごくわかる(こんなに共感をもって読めた本は久しぶりだ!)。鯨祈祷師の存在にひとしきり驚いた後に、鯨祈祷師の生活について想像をめぐらしてみる。しかし、当然うまくイメージができない。そこでまた想像力を働かせてみる。すると、よくわからない職業だ、しかし、それはなぜだかとてもいいものかもしれない、なんて思えてくる。そのような想像が物語的な原石になり、頭のなかで輝く瞬間がとても楽しいに違いない。おそらく4千4百万語の項目からは無限の物語がつむげるに違いない。それはまるでボルヘスの世界だ。





 私も負けてはいられない。『神学大全』読破に挑戦しなければ……!





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

土井善晴 『おいしいもののまわり』

おいしいもののまわり posted with amazlet at 16.02.28 土井 善晴 グラフィック社 売り上げランキング: 8,222 Amazon.co.jpで詳細を見る NHKの料理番組でお馴染みの料理研究家、土井善晴による随筆を読む。調理方法や食材だけでなく食器や料理道具など、日本人の食全般について綴ったものなのだが、素晴らしい本だった。食を通じて、生活や社会への反省を促すような内容である。テレビでのあの物腰おだやかで、優しい土井先生の雰囲気とは違った、厳しいことも書かれている。土井先生が料理において感覚や感性を重要視していることが特に印象的だ。 例えば調理法にしても今や様々なレシピがインターネットや本を通じて簡単に手に入り、文字化・情報化・数値化・標準化されている。それらの情報に従えば、そこそこの料理ができあがる。それはとても便利な世の中ではあるけれど、その情報に従うだけでいれば(自分で見たり、聞いたり、感じたりしなくなってしまうから)感覚が鈍ってしまうことに注意しなさい、と土井先生は書いている。これは 尹雄大さんの著作『体の知性を取り戻す』 の内容と重なる部分があると思った。 本書における、日本の伝統が忘れらさられようとしているという危惧と、日本の伝統は素晴らしいという賛辞について、わたしは一概には賛成できない部分があるけれど(ここで取り上げられている「日本人の伝統」は、日本人が単一の民族によって成り立っている、という幻想に寄りかかっている)多くの人に読んでほしい一冊だ。 とにかく至言が満載なのだ。個人的なハイライトは「おひつご飯のおいしさ考」という章。ここでは、なぜ電子ジャーには保温機能がついているのか、を問うなかで日本人が持っている「炊き立て神話」を批判的に捉え 「そろそろご飯が温かければ良いという思い込みは、やめても良いのではないかと思っている」 という提案がされている。これを読んでわたしは電撃に打たれたかのような気分になった。たしかに冷めていても美味しいご飯はある。電子ジャーのなかで保温されているご飯の自明性に疑問を投げかけることは、食をめぐる哲学的な問いのように思える。

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」