スキップしてメイン コンテンツに移動

読売日本交響楽団第506回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール




指揮:下野竜也(読売日響正指揮者)


《下野プロデュース・ヒンデミット・プログラムVI》


ヒンデミット/〈さまよえるオランダ人〉への序曲 ~下手くそな宮廷楽団が朝7時に湯治場で初見をした~


(下野竜也編・弦楽合奏版、世界初演)


ヒンデミット/管弦楽のための協奏曲 作品38(日本初演)


ブルックナー/交響曲 第4番 変ホ長調 WAB.104〈ロマンティック〉(ハース版)



7月の読響定期は6回目となる正指揮者、下野竜也によるヒンデミット・プロ。このシリーズは昨年も聴いていて私にとっては2回目となる。ヒンデミットの作品のなかでも珍曲として有名なワーグナーのパロディを弦楽合奏版に編曲したバージョンや、日本初演となる《管弦楽のための協奏曲》などマニア垂涎の曲目が並んでいるのだが、そうした意向を反映するようにして空席が目立つ目立つ……。





これで演奏も素晴らしいのであればハードコアなヒンデミット・マニアも喜んだだろうけれど、果たしてその水準に達していただろうか。寸劇付きで演奏された《さまよえるオランダ人》への序曲は、珍曲披露以外にあまり聴くところがなかった気がするし(ところどころにヒンデミットらしい和音が挿入されたりして面白いのだが)、《管弦楽のための協奏曲》も何かが足りていないように感じてしまった。この作品は、20世紀のコンチェルト・グロッソ的楽曲。変態的なフーガや楽器の用い方に、ヒンデミットの過剰な構築美が表れるのだが下野の演奏は、その過剰性を配するようにスッキリと聴こえてしまう。何かが足りない感じの原因はここにありそうだ。マニアックな狂騒とテクニカルな演奏の精度の両立が聴きたかった。個々の演奏者はとても良かったので残念。とくに特にヴァイオリン、オーボエ、ファゴットの三重奏や、2楽章での木管のアンサンブル、トランペットのソロなどは良かった。





後半のブルックナーについても概ね似たような感想を抱いた。読響と言えば、ここ数年は定期演奏会にブルックナーがメインの回が1シーズンで2回もコンスタントに入ってくるブルックナー大好きオーケストラである。細かいズレなどは致し方ないとしてもブルックナーに必要な音の質や金管の安定感・解放感には間違いがない。そして、その実力はこの日も発揮されていた。状態としては昨シーズンのスクロヴァチェフスキによる第7番のときよりも良かったのでは? にも関わらず、ちっとも心に響かないのである。部分部分の見せ場については心得ているし、そこは力がこもった演出を見せてくれるのだが、大局感に欠けた演奏、というか。定期テストの点数は良いのだが、駿台模試の結果は悪い、みたいな……。だから感動的なフィナーレが用意されても見えすいたとってつけた表現として耳に入ってしまう。牧歌的な柔らかい響きが強調され、なんだか庶民的なブルックナーだなあ、と思ってしまったのも趣味に合わなかったかもしれない。それがこの人の芸風なのかもしれないが、ブルックナーの音楽って、もっとこの世のモノではない世界の音楽だと思う。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...