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複雑で、美しい文学的な織物のような小説(ウラジーミル・ナボコフ 『賜物』)

賜物 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集2)
ウラジーミル・ナボコフ
河出書房新社
売り上げランキング: 203,306
ナボコフがロシア語で書いた最後の長編小説『賜物』を読む。これは(作家自身は否定しているが)作家本人のパーソナリティが幾人かの主要な登場人物に投影された半自伝的小説であり、ベルリンにおける亡命ロシア人たちの生活を描く風俗小説であり、詩や小説についての批評も挟み込まれ、さらに作品内に別な小説が挟み込まれたメタフィクションも……という大変ヴォリュームのある作品である。地の文がいつの間にか登場人物の意識の流れに変化していたり、登場人物を追う視点がいきなり別な場所に飛んでいったりするこの作品の文体は、編集がカッコ良い映画を観ている気分に誘い、その小説技法に魅せられながら、わたしは「これは様々な色の美しい糸で編み込まれた織物のような小説だな」と思った。書き出しはこんな感じである。
曇っているのに明るい午後、四月一日のもうすぐ四時になろうとする頃、年は一九二…年(ある外国の批評家がかつて指摘したように、たいていの長編小説は、例えばドイツのものはすべてそうだが、正確な日付から始まっているのに、ロシアの作家だけは—わが国の文学特有の正直さのせいで—最後の桁までは言わないのである)、ベルリンの西部、タンネンベルク通り七番地にある家の前に家具運搬用の有蓋貨物自動車が停まった。
人によって好みが分かれるところだと思うが、いきなりこのめんどうくさそうな感じ、スッと進まない感じ、わたしはこれだけで「ああ、なんだか面白そうな小説だな」と思った。解説で訳者の沼野充義が、この作品をジョイスとプルーストの作品に並ぶ、モダニズム小説として扱っているが、確かにそうした息吹は感じられるだろう。ダブリンの市民は、ベルリンの市民に、失われた時間は、失われた主人公の父に。また、ロシア語やドイツ語、英語、フランス語を駆使した言葉遊びは、音楽的にも読める(もちろん翻訳では、その音楽性が完全には聴き取れないけれども)。

個人的にもっともグッときたのは、第2章。これは主人公が亡命前に過ごしたロシアでの少年時代の回想であり、また、調査旅行にでかけたまま消息を絶った蝶類学者の父親の記録である。若い作家である主人公は父親の伝記を書こうとしていて、小説にはチベットの奥地をめぐる冒険小説的なものが挿入されている。この挿入も面白いのだけれども、少年時代の父親との交流の記憶がとても美しい。「回想」は、コンピューターがデータベースのなかにある情報を探しだすように自由には思い出すことができず、思いがけないときに、沸き上がってくる。プルーストもそうだけれど、その不自由な記憶の吹き上がりにもにた現象を書き留めたような「過去」の描写は、わたしの琴線に触れるのだ。

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