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奥村隆 「亡命者たちの社会学: ラザースフェルドのアメリカ / アドルノのアメリカ」


おそろしく久しぶりにアドルノ関連の論文を読む。書いているのは私の学生時代の先生で、私はこの先生のもとでアドルノの音楽批評についての卒業論文を書いており、先生がアドルノを取り上げているのはちょっとした驚きでもあったのだけれども、ノルベルト・エリアスに関する研究のことを考えると「亡命ユダヤ人社会学者」という萌え要素に近いなにかが存在したのではないか、などと想像してしまうのだがそれはどうでも良い。

亡命以降、経験的・量的調査によって社会分析をおこなったラザースフェルドと、社会学者というか哲学者というか美学者というか、なんだかよくわからないけれどもとにかく難しいものを書き続けていたアドルノ。両者の業績をどちらもカヴァーしている人は、そう多くないだろうし(というか全然いないのでは、という気がする)、一見両者にはまったく関係がない、という感じがする。けれども、アドルノがアメリカ亡命時代に研究員のポストを与えられたとき、彼の上司だったのはラザースフェルドである。では、両者の仕事に影響関係があったのか? というと、これはまったくないし、ラザースフェルドにとってのアドルノは「難解なことばっかり書いてる困ったヤツ」であったし、アドルノにとってのラザースフェルドの研究は「社会学って計測できることばかり調べても仕方なくね?」と疑問を抱かせるものだった。つまり全然相容れない存在だったわけだ。

両者は研究者としてやっていることも違えば、亡命時の生活も正反対である。アメリカ社会に馴染もうとし、実際アメリカの社会学界に大きな影響を残した重要人物であったにも関わらず、生涯アウトサイダー感を拭い去れなかったラザースフェルド。それに対して、最初からアメリカ社会に馴染む気がなく、同じ亡命ドイツ人同士でつるみ続け、終戦後にドイツへ戻ったアドルノ。この論文で指摘されている、両者が描き出すアメリカの姿の対称性は当然のようにも思われながらも面白く読んだ。とくに目立った違いは、両者の研究における「マスメディアのもつ社会への影響力」の捉え方である。

マスコミの影響力について考えると、新聞、ラジオ、テレビ、インターネットといったメディアから流される情報が、直接的に人々に影響を及ぼす、ほとんど洗脳に近い様子を思い描いてしまいがちだ。アドルノが考えたメディアの力とは、この図式に完全に乗っかったもので、彼はマスコミを圧倒的な力をもって人々を「規格化」、「愚鈍化」させるものとして考えていた。これに対して、ラザースフェルドが示したのは「マスコミがもつ影響力は限定的」ということだ。『ピープルズ・チョイス』という著作で、彼は1940年の大統領選での意思決定をとりあげ、マスコミの影響力よりも、人の影響力のほうが強かったことを明らかにしている。これはどういうことなのか。ラザースフェルドの「コミュニケーションの二段階の流れ」モデルにおいては、マスコミから流れる情報は、ある集団で影響力を持ったオピニオン・リーダー的な人に流れ、多くの影響はその人から生まれる、という風に描かれている。

このモデルについて、この論文を読んで初めて知ったのだけれども、すげえな、確かにそういうことってありそうだな、と思わされて勉強になった。この図式、2ちゃんねるとか、Twitterなどの各種SNSで飛び交っている言葉の数々を見るにつけ、一層現実味を帯びている気がする(ラザースフェルドの著作は邦訳も原著も絶版になっているので残念)。また、このモデルと対比されたアドルノの文化産業批判が、なんだか自分には理解できないものを「邪悪だ!」としてレッテル張りをしたもののようにも思われてくる。とはいえ、そういうレッテル張りからしか描きえなかったものもあるのだろう、とも思うのだけれども。

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