面白かったですよ、これまた。今年は昭和89年ですから『「いき」の構造』が刊行された昭和5年から84年も経っていることになる。そういう昔の人が、西洋哲学の術語を用いて、日本人に独特な美的感覚を巧みに描き出したら、大変難解なものになりそうなのに、難しく書かれているわけではない(ただ、西洋哲学の術語体系についての知識や、たまに挿入されるフランス語やギリシャ語、ドイツ語やラテン語に補足がないので、そこで挫折する人はいると思う)。昭和5年にどういう人に向けてこれが書かれていたかは気になるし、また、84年後もまだ読まれているのも違った感慨があるけど、昔の文章なのに書いてあることがわかる、って単純に考えて結構スゴいと思う。
で、「さて『いき』とは!」みたいに語りはじめる冒頭部で、いきなり「ものすごく手に入れたかったのに、いざ手に入れてしまうとめっちゃ冷めるよね」的な、あけすけに申せば「一回ヤッちゃうと、どうでもよくなっちゃうことってあるよね」的なことが論じられ、つまり「いき」とは「見えそうで見えないのがいいよね!」的な感じなんですか……? と思って大笑いしてしまった。わたしはが一番この本から得たものは「見えそうで見えないのが良いよね」、「付き合えそうで付き合えないのがドキドキするよね」的なヴァイブスを、アキレスと亀の説話で表現可能である、という一点に尽きるかもしれない。
「いき」という(日本固有の)感覚の、外国語への翻訳不可能性(というか外国での存在不可能性か)についての書きぶりは、端的に言って好みのお話だし、結局のところ、この本も「いき」に関する完璧で、客観的な記述をやってやったぜ! というものではなく、逆に、その完璧で客観的な記述の不可能性に到達し、しかし、不断の記述をするところに「学の意義は存するのである」と唱えるロマンティシズムを感じるのだった。
コメント
コメントを投稿