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そうか、バッハは異端だったのか




西洋音楽史―「クラシック」の黄昏
岡田 暁生
中央公論新社 (2005/10)



 「そういえば音楽史について真面目に勉強したことって無かったな。全て耳学問だ…」という事実に気がつき、評判が良かった本を一冊読んでみた。まぁ、新しく知った知識はそれほど無かったのだが、それでも結構面白かった。特にバロック時代におけるJ.S.バッハの位置づけは非常にスッキリさせてもらった感あり。第3章までが割と収穫だった。「歴史っておもしれーなぁ。熱いなぁ」と最近は友人と話している。私がミシェル・フーコーのファンなのも、彼の著作が「歴史の読み物」としても超面白いという点に尽きる。その歴史本の中に自分の言いたい権力論を織り込んでいく書き方が見事だよなぁ。





 この本でも序盤の方に西洋芸術音楽におけるエクリチュール至上主義について触れられている。そういった態度からは、音楽とは「楽譜に書かれたもの」であり「必ずしも耳に聴こえる必要はない」という一種の聴衆無視とさえ受け取られるものが生まれているのだけれど、「さすがにそれは問題だよな」と思う。以前、ピエール・ブーレーズの《アンシーズに基づいて》という曲を聴いたときも似たような問題について考えた。この作品は3台のハープ、3台のピアノ、3人の打楽器奏者のための作品なのだけれど、折角豪華に3台もハープを使用しているのに全く楽器の音が聴こえないのである。原因はハープとピアノと音色が似ているためでも、音量不足でもあるだろう。っていうか「楽器の選択が間違ってるんじゃないの?(作曲の段階で)」とさえ思った。超絶技巧を要する曲でハープ奏者は一生懸命弦を爪弾いている、しかし、悲しいほどに音は聴こえてこない。その姿はちょっと滑稽だった。





 例えば、その状況に「ピアノによってかき消された《沈黙のハープ》は、聴衆の前に《演奏の身振り》という身体的なパフォーマンスを提示する」だとか「大音量で掻き鳴らされたピアノの前に、ハープ(女性の象徴!)は抑圧された状況におかれ、現代社会に根強い女性蔑視を暗示しているのである!!」などと意味づけを行うことは可能だ。が、あまりにもバカバカしいし、ここで今適当につけた意味をブーレーズに問うたとしても、冷笑されるか、無視されるか、あるいは激怒されて背中に火をつけられるか、だと思う。しかし、こういう「聴こえない音」が含まれる作品を書いておいて「私は現代音楽の未来に、なんら不安を持ったことはない」とか言われてもなぁ…。





 音楽史とは全く関係ない話になってしまった。岡田暁生、小沼純一、渡辺裕の著作には外れが無いですね。





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