スキップしてメイン コンテンツに移動

東京都交響楽団第635回定期演奏会@サントリー・ホール



曲目




  • ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番

  • R・シュトラウス:《アルプス交響曲》


 指揮はエリアフ・インバル、ピアノはエリソ・ヴィルサラーゼ。海外からの割と大物な指揮者が客演ということで、この日の客入りは8割ほどという感じ。「あー、生でベートーヴェンのピアノ協奏曲が聴きてぇなぁ」と2ヶ月ほどまえにチケットを予約していたのだけれど、チケットを買っていたのをほぼ忘れているぐらいだったので本当にチケットを予約できているか心配になりながら、会場へ。カラヤン広場は早くもクリスマスムード全開。


 ソリストのエリソ・ヴィルサラーゼという人は、グルジア出身でネイガウスやリヒテルなどの元で研鑽を積んだ大家なのだとか。ボリス・ベレゾフスキーの先生だと言うのだから、結構すごい人みたい。細かいところの指周りが怪しかったり冒頭からちょっと心配だったのだけれど、まずまずの好演。テンポの変化がかなり目まぐるしく、オーケストラとの連動が上手くいっていない所もいくつかあったけれど、ラストで一気に巻いていく勝負感が楽しい。



R.シュトラウス:アルプス交響曲
インバル(エリアフ) スイス・ロマンド管弦楽団 R.シュトラウス
コロムビアミュージックエンタテインメント (2005/12/21)
売り上げランキング: 10980



 そしてメインの《アルプス交響曲》。R・シュトラウスの1911年の作品。これはもう後期ロマン派最大規模の作品と言っても良く、通常の二倍のオーケストラ(チューバ、ハープも二台ずつ!)、各種の特殊楽器、金管別働隊、さらにオルガンまで使用するというキチガイっぷりが圧巻で、演奏前から笑いが込み上げてきた。喩えるなら二個大隊+特殊兵器+グリーンベレー部隊にガンバスターがついてくるみたいな感じだろうか。そこには「近代性の結晶」としての音楽みたいな精神があって「オーケストラでアルプス登山を表現してやるぞ!オラッ!!」みたいな気概がとても良い。今、そういう「やる気」をみたら失笑するけど、当時はガチだった、っていうのが温度の差を感じさせ、その差が好きだ。バカみたいに扱ってるけど、生で聴くとマジで迫力とか音量とかがすごいから、機会が会ったら一度は体験してほしい作品だな、と思う。


 インバルの演奏は「さすが外人……惜しみないな……」と思わせるパワフルなもので、とても良い演奏。各ソリストも気合充分で(特にコンサートマスター矢部達哉!)、日本のオケもやればできるじゃないか!と見直すぐらいに興奮させられる。この曲で使う特殊楽器もバカみたいに音量全開だし。特にウィンドマシーン(レバーをグルグルまわすと風が吹く音が出る)は、後半部分ずっとソロみたいな活躍ぶりで笑った。バカみたいなんだけど、そういう曲なんで良いのです。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」