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こどものミメーシス




ベートーヴェン―音楽の哲学
テオドール・W. アドルノ Theodor W. Adorno 大久保 健治
作品社
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 『ベートーヴェン――音楽の哲学(Beethoven: Philosophie der Musik)』は1993年に出版された最も新しいアドルノ著作である。もちろん1969年にアドルノは亡くなっているから彼が直接出版を許可したわけではなく、ドイツのアドルノ研究者ロルフ・ティーデマンがアドルノの遺稿や膨大な量のメモを編纂して一冊の本をまとめたもの。『ミニマ・モラリア』的に断章がテーマとの関連などで区切られ並べられているのだが、アドルノが存命中に発表したものより「分かりやすい言葉」が綴られているという印象を受けた。「死後他人による編纂だから厳密にはアドルノの著作とは呼べない」かもしれないが、「非体系の思想」を自称し、自らのスタイルにエッセイを選択したアドルノである。あんまり問題は無い、っていうかティーデマン、良い仕事しすぎて泣ける。


 ここ何日か「アドルノにとってミメーシス【模倣】って具体的にどういう認識の手段だったんだろーなぁ」ってことをもうちょっと考えたくて色々と探り、今まで読んだものを読み返しながら、このベートーヴェン論を読んだ。一つ読んでいて思ったのは、アドルノが考える「最もミメーシスに適した認識主体」とはひょっとしたら子供であったんじゃないか、ということ。この本の第一章である「序曲」には、アドルノがベートーヴェンのピアノ・ソナタ第21番《ワルトシュタイン》について、子どもの頃の思い出を折り返しながらこのような断章を残している。



子供の頃の私はこのソナタは、いわばワルトシュタイン(森の石)という名を表す曲と考えていた。その名を聴いた時、私が最初に想像したのは、暗い森に踏み入る騎士のことであった。後年私はこの曲をいつも暗譜で演奏するようになるが、子供の頃の私の方が、真実に近いところにいたのではあるまいか。



 アドルノの子供時代の思い込みは事実とは異なっている。《ワルトシュタイン》というタイトルは「森の石」を意味する一般名詞ではなく、ベートーヴェンが献呈したワルトシュタイン伯爵の固有名だ。言うまでもなくアドルノはそのことを知っている。しかし、暗い森を思い描いていたときの方が「真実に近いところにいたのではないか」という。ここには過去への憧憬があるように思われる(このあたりにアドルノがよく引用するプルーストとの近似性がある)。アドルノがこのように過去を振り返るのは、理性からミメーシスへの不可逆性とも通じている気もする。もう少し噛み砕くなら「今自分はこの曲を暗譜しているし、アナリーゼもできる。冒頭に続くC-durの連打が騎士が森に踏み入る足音を意味するものではないことも知っている。でも、悲しいっすよね。あのときみたいに曲を“体験すること”はできないのだから」みたいな感じ。あー、全然上手く言えてない。


 とにかく、これは読んで良かった。「付録」でついてくるアドルノのラジオ講演録も面白かったし。





コメント

  1. geheさんって誰かと思いました!私ですか。細見本によればアドルノのミメーシスはかなり「身体的な認識(理解)」であるように思われます。対象物との身体的同一化という意味では、ある種の究極の同一化に他ならないのですが(これは藤野本でも指摘されていたこと)。アドルノが初めて大々的にこの言葉を用いたのは『啓蒙の弁証法』だったと思いますが、そこでも「合目的な理性」が自然支配をはじめる前段階、呪術が社会を支配していた頃の宗教的なものにミメーシスを見出していたようです。
    >「因果論的思考」と「了解的思考」の和解不能性
    なんですか…それは……

    返信削除
  2. 「ミメーシス」という言葉の用法が、かなり特殊な用法で使われている気がするので正確に意図を理解しているとは到底いえませんが、geheさんが仰っている「理性からミメーシスへの不可逆性」ということは、20世紀前半において、それなりに問題となっていた「因果論的思考」と「了解的思考」の和解不能性といった主題と密接にかかわっている気がします。ヤスパースの精神病理学研究とか(少し大げさかもしれないけれどハイデガーの存在論とか)、新しいところだとリクール『時間と物語』とか。

    返信削除

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