東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編posted with amazlet on 06.11.27菊地成孔 大谷能生
メディア総合研究所
売り上げランキング: 14540
プログレとか言ってる場合ではなく、えっさえっさと卒論を書かなくてはならない身の上なのでプログレ関連のYoutube動画を探すのを我慢して卒論を書いています。現在は1930年代からのジャズ批評における「語りの方法」を抽出し、その後、アドルノと闘わせる……というよくわからない構想の章に着手しはじまったところ。その前に簡単なジャズ史みたいなものを書かなくてはいけないので、昨晩から菊地・大谷による『東京大学のアルバート・アイラー』を再読しています。
爆笑しながらジャズの歴史とその即興演奏における方法論が知ることができる、ということに「とんでもない本だ……」と改めて思ってしまいました。特にマイルス・デイヴィスの「モード奏法」の箇所などは素晴らしく明快で「『Kind of Blue』の根底にはこんなドグマが存在したのだなぁ、ふはぁー」と溜息がもれますが、それをさらにこのアルバムが出た当時のジャズ批評と対比してみると、この本の「面白さ」は何倍にも膨れ上がります。
当時のジャズ批評って、やれ「黒人の怒りが」とか「○○の生活は……」とか音楽と全く関係ないことばかり語っているのですね。終止、ミュージシャンの身の上話に語りのフォーカスが当てられている。これってたぶん、ジャズ・ジャーナリストと呼ばれる人たちってジャズを楽理的に分析する能力が皆無だったからだと思うんですよ*1。その「音楽の構造を分かってないけどなんかを語ってる不思議な感じ」は『東大アイラー』と比較すればすごく浮かび上がってくる。
ただ『東大アイラー』は別に画期的な語り口というわけではないんですけど。「楽理的分析から批評的な言説を紡ぐ」という方法であれば、それこそアドルノだってやっているし、それ以前のハンスリックという人もやっています。でも、いつしかそういう方法は取られなくなっていく。その感じっていうのが、音楽がどんどん楽譜(というエクリチュール)から離れていくのと関係があるんじゃないかな……と思ったりもします。楽理的分析によって音楽を描くこと事態に限界があるのに、菊地・大谷がそれによって音楽をどう語るのか、っていうのはあんまり明確にされていないような気もするし。言ってみれば楽理的に音楽を分析したところでそれを「理解」と呼べるかどうか……。アドルノならそんな「理解」を「音楽の廃墟にすぎない」とか言う気がするなぁ。
再読しているうちに論文と関係ないことが頭に浮かんだので、ささっと書いてみました。
コメント
コメントを投稿