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不調和が調和するベルク




アルバン・ベルク―極微なる移行の巨匠
テーオドール W.アドルノ 平野嘉彦
法政大学出版局
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 アドルノによるアルバン・ベルク論。この作曲家は、アドルノの作曲の師でもあり、本のなかではアドルノとベルクの交流についても綴られている。ベルクの生きた様子などに関する資料は、少なそうなので貴重なものなのかもしれない。シェーンベルク、ヴェーベルンらと一緒に「新ウィーン楽派」とくくられることからこの三人は親密な共同体として活動していたのかと思ったら、意外にも行動がバラバラだったりしたところが面白かった。残された作品を聴く限り、三者三様の「新音楽」がある気はしていたのだが、その証明ともなり得る。


 ただ、結構読むのはキツい本である。前半にベルク概論的な文章と回想録があり、後半は作品分析になるのだが、後半がキツすぎる(はっきり言って『否定弁証法』よりずっと読めない)。譜例を用いたアナリーゼが延々と続き、歯が立たなかった。私にとって身になった数少ないものといえばアドルノによる「作品分析論」が語られているところ。アドルノが「分析」について語る際には、毎回と言って良いほどシェーンベルクの言葉が引用されるのだが、ここでも同様であった。それとオペラにおける音楽とテキストの関係性に触れられている部分ぐらいしかまともに読めない。この部分では結構「音楽批評家」と「思想家」というアドルノの二つの姿がつながりそうなのだが「まだまだ難しいな……」とか思う。



ベルク:弦楽四重奏曲
ベルク:弦楽四重奏曲
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アルバンベルク四重奏団 アルバン・ベルク四重奏団 ベルク
東芝EMI (2005/12/21)
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 読んでいる途中、先日の鍋パーティで偶然ベルクの話になったのを思い出す。某音大大学院にて声楽を学ぶid:redsmokeさんが「ベルクが好き!」と言ってらしたのである(どんな流れでそんなことを言っていたかは忘れた)。ベルクの名前が出てきたことにびっくりしつつ「えー、ベルクー。なんかロマン派と混ざっててハンパじゃねー?(ヴェーベルンのほうが良いよ)」と私が言うと「だから良いんじゃない!」とみうらじゅんばりの返事が返ってきた。アドルノ曰く「彼が12音技法を受け入れたとき、彼の最初の関心は、それを破綻なくみずからの音調に融合せしめることだった」そうな。「ロマン派と混ざっている(だから良いんじゃない!)」という指摘は、そのアドルノの言葉と関連しているようにも思う。


 で、《叙情組曲》を聴き直してみた。久しぶりに聴いたので、冒頭にドビュッシーが用いそうな和音が聴こえたあたりで「あれ、こんなに綺麗な曲だっけ」と思ってしまった。ところどころ腐りかけの果実みたいな美しさがあるのだが、なんとも言えない。またシェーンベルクやヴェーベルンの方がずっと整然としていて「調和した音楽」に思えてくる。実際、ヴェーベルンの「ルールに則ってる」感は、ものすごくシンプルだし。逆に言えば、その12音音楽で調和している感じにいかないで、「不調和の調和」という矛盾した状態のなかにとどまっているところが、ベルクの魅力なのかなー。ちょっと興味がでてきた。





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