先日お会いしましたid:redsmokeさんのところに、私に対する「人物評」が書かれており、ふむふむと思いました。「好きなものに夢中な子供のような無邪気感アリアリでかわいらしい子」だそうです。紳士を標榜する男子たるものが「かわいい」といわれてしまうのは若干どうかと思いますが、そのように思っていただけてこちらとしても満足でございました。実のところを申しますと「好きなものを前にして子供のように振舞うこと」は私が生涯貫いていきたい態度の一つでございます。
しかし「好き」という態度の表明は少し気恥ずかしいものであります。でも、「好き」と云いたい。しかし、残念ながら私はもう既に立派な大人。ある意味では私が「好きなもの」に対して長々とこのブログ上で文章を書き綴っているのは、ただ単に「好き」と云ってしまうことに対する照れ隠しのようなものであるのかもしれません。「○○だから好き」、例えば「クレンペラーの指揮する木管楽器を強調させた演奏は、現代のオーケストラにはない豊かな響きを作り出している。だから私は好きだ」と云えばなんとなく体裁がつきます。
普通はなんとなくそこで納得されますが、もう少し突っ込んで「じゃあ、どうして豊かな響きがすきなの?」と訊ねられると困ってしまうところです。またそこで「豊かな響きは○○だから好き」と云わなくてはいけない。ここからは問いの循環にしかなりません。「どうして○○が好きなの?」――「○○は△△だから好き」――「△△は……?」。この場合、本当に真摯な答えだと思われるのは「クレンペラーが好きだから好き」という同語反復にしかなりません。これは「こどもの返答」です。私がここに書く文章の根源的なところには、そういった「こどもの返答」をひた隠しにしている部分があります。めんどうくさいけれど、「好き」というには恥ずかしいから、思わず理屈をこねてしまう。
「気持ちを閉まっとけばいいじゃないか」と云われても、仕方ないんです。だって、書きたいんだから。好きって言いたいんすよ(これもこどもの返答)。
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