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世界史の補講中3時間をディラン映画に費やすべきだ




ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン (2006/06/23)



 バイト終了後、DVD返却しにいったらカウンター近くの「ただいま返却されたばかりのコーナー」に、ボブ・ディランのドキュメンタリーが置いてあったのでつい借りてしまった。言うまでも無いことだが『ノー・ディレクション・ホーム』、ディランの名曲(このドキュメンタリーのなかでは問題作)「ライク・ア・ローリングストーン」の歌詞の一部がタイトル。「どういう気分だい?帰る家がないっていうのは」。


 別段ディランの大ファンというわけではない私でもグッとくるところがいくつかあった。編集マジックが効いていると言うのもある。特にディランとジョーン・バエズが歌うところに、キング牧師の「我々は自由だ!」という演説をかぶせてくるところはゾクッと来るほど感動的な編集だと思う。というよりも、ここまでモンタージュありきなドキュメンタリーはなかなか無いような気がする。「現在のディランのインタビュー」、「過去のディランの映像」、「ディラン関係者の証言」、それから「時代の社会的な事件の映像(あるいは過去のディラン以外のミュージシャンの映像)」。これらの素材が最初から最後までツギハギで展開される。これによってこの作品は二つのものを見事に描き出していると私は思った。


 一つはもちろん、ボブ・ディランという人間の軌跡。アコギとエレキを持ち替えながらツアーをめぐる際の葛藤や、所謂「フォークロック」誕生の秘話などの部分が語られる後半において「弱々しい普通の人間」としてのディランの姿が浮かび上がる。虚ろな目でインタビューに答える彼の姿は、脆く、とてもスターには見えない。そして、映画が描いているもう一つのものは「(ディランが存在していた)60年代のアメリカの姿」である。ベトナム戦争、キューバ危機、公民権運動といったものに対して映画のなかでディランは直接の証言を行わない。しかし、挿入される映像によってそれらの「アメリカ」はディランの目を通したものとして描かれて「しまっている」。当時の問題や混沌がなんとも痛切にものとして感じられた。


 「ディランという人間」と「ディランが生きた時代」。もしこれがディラン以外のミュージシャンのドキュメンタリー映画だったならば、前者を描くだけで充分成立する。しかし、ディランという人を語るにはそれだけでは片手落ちだ。ディランを描くためには、後者を描くことの必要性が発生するだろう。DVD二枚組で3時間。DVDの容量を考えれば一枚に収まってしまうのだが、これを前半/後半で分けそのなかで描く対象がキッチリ分けられていて明確な狙いを感じた。長さのなかで退屈さを感じさせないのは、マーティン・スコセッシの技量か。素晴らしい映画だ。続編が楽しみ。


 どうでも良いけど、「ライク・ア・ローリングストーン」が発表された週のチャートが映画のなかで登場するんだけど、一位「ヘルプ!(ビートルズ)」、三位「カルフォルニアガール(ビーチ・ボーイズ)」に挟まれて二位にディランという結果となっている。ものすごい時代だ、と思った。





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