ルチアーノ・ベリオ

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ベリオ:セクエンツァ
ベリオ:セクエンツァ
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 卒論の執筆を進めながら、ルチアーノ・ベリオの《セクエンツァ》を聴く。これは様々な楽器による独奏作品のシリーズで、どれも超絶技巧/特殊奏法を駆使しなくては演奏することが不可能なように書いてある(ナクソスからCD三枚組の全集が出た)。例えば、管楽器による「重音」などがその「特殊奏法」の一例。本来であれば、管楽器は同時に二つの音を鳴らすことは「不可能」なのだが、アンブシュアや運指をなんとかすることによって倍音が上手く分離して、あら、不思議、音が2つ鳴っているように聞こえるではないか!という仕組み。昔のジャズ・ミュージシャンのインタビューで「サックスで和音を吹けるんだぜ、俺は」と誇らしく語っているのを見かけたことがあるけれども、おそらくそれも同じことを言っているのだろう。しかし、それは分かりづらい特殊奏法である。吹いている本人は必死だし、おそらく骨伝導で音が聞こえているからハッキリと音が分離して聞こえてるのかもしれないが、訓練されていない耳で聞いてしまうと単音にしか聞こえない可能性は充分ある。


 そもそも音楽にとって技術とはなんであろうか?音楽史を紐解いてみるとリストやパガニーニといった演奏家が超絶技巧をサーカス的に披露し大人気だったロマン派の時代に技巧への注目は高まるようになったらしい(そのへんの話は岡田暁生の『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』に詳しい。超良い本です)。そのとき本来であれば、音楽を演奏するための「手段」であったのがまるで「目的」かのように倒錯的に扱われるようになっている。「あらまぁ」という話だが、一応建前では「超絶技巧」は「手段ですよ」ということになっている。つまり、技巧は作品の内容を成立させるために必然的に生まれたものですよ、ということを一応言っているわけだ。ピアノの世界に限れば20世紀にはピエール・ブーレーズやカールハインツ・シュトックハウゼンが超絶技法を駆使する作品を書いている。ブーレーズのソナタは『タキシードを着て演奏可能な最後のピアノ曲』と称された。が、そんな話を聞いたらブーレーズは「これはピアノ曲ではない」というタイトルの論文を発表しそうな気がしないでもない。


 ベリオの《セクエンツァ》の場合、潔いのが「これは超絶技巧のための作品ですよ」と言ってしまっている点だ。だからといってすごい技法でメロディを速弾きするわけではなくて(あと、フレーズの速度で言うならインペリテリの方が速い)、やっぱりセリエルでとっても難しい作品。もしかしたら演奏している本人だけが「うおー、やったぜ、俺こんなすげぇことやってるぜ」と汗かきながら心の中でガッツポーズするだけなのかもしれない。私は自分でもバスーンを吹くから「うおー、すげぇな」と思うけれども(《セクエンツァ》第12番)、他の楽器のことはよく分からないし……。「潔さ」の部分、というか発想は好きです。

 それから、いつまで経ってもベリオについてのキーワードに追記がないため、自分で書きました(id:encyclopectorさん、チェックよろしくお願いします*1)。




*1:あえて《シンフォニア》には言及していません





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