スキップしてメイン コンテンツに移動

音楽の化身、カルロス・クライバー




D


 素晴らしい動画が見つかったので、喜び勇んでご紹介いたします。カルロス・クライバー指揮/アムステルダム・ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団によるベートーヴェン交響曲第7番(第4楽章)の映像です。ワーグナーが「舞踏の聖化」と讃えたように、クラシック中最もダンサブルな曲の一つ(他にはストラヴィンスキーの《春の祭典》がノミネートされるでしょうか)ですが「音楽の化身」ことカルロス・クライバーはこの曲に同化するような指揮ぶりで聴くものを魅了してくれます。超エキサイティング。3:57あたりで指揮棒を完全に止めてしまう……という信じられないアクションもまたすごい(そのときのクライバーは天真爛漫な笑顔)。この映像はカール・ベーム追悼演奏会の模様でしょうか。



ベートーヴェン:交響曲第5&7番
クライバー(カルロス) ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ベートーヴェン
ユニバーサルクラシック (2002/09/25)
売り上げランキング: 1,587



 ウィーン・フィルを振った録音も素晴らしい。はっきり言って「正統派」の演奏からは3光年ぐらい遠い解釈だけれど、こんなに辛気臭くないベートーヴェンは他に無いので大好きです。映像を観れば分かるように、本当に音楽を演奏する歓び(月並みな言葉ですが)というか、ポジティヴな力を発散しまくってる人で「天才!」としか言いようがありません。



D

 (こちらは同じコンビによるベートーヴェンの交響曲第4番の1楽章)「天才」と「変人」とは紙一重、むしろ才能があればあるほど奇行が多い音楽界。カルロス・クライバーにもそういったエピソードがたくさんあります。例えばセルジュ・チェリビダッケ*1に対して、とっくに死んでいる大昔の指揮者トスカニーニの偽名を使って抗議文を送り、その後天国のトスカニーニ対チェリビダッケの論争を新聞上で展開したり、気に食わないことがあったら速攻でコンサートをキャンセルしたりしています。「アイドル指揮者」のような存在になってからは極端にステージの回数を減らし、年に3回ぐらいしか舞台に立たないというひきこもりっぷりも発揮(それでも人気は不動)。


 カルロス・クライバーは、1999年の舞台を最後にして結局5年間「いつ、クライバーは戻ってくるのだ」とファンを待たせたまま2004年に亡くなりました。今になると「ああ、なんかシド・バレットみたいだな」とか思います。クレイジー・ダイモンド。



Brahms: Symphonie No. 4 / Carlos Kleiber, Wiener Philharmoniker
Johannes Brahms Carlos Kleiber Vienna Philharmonic Orchestra
Deutsche Grammophon (1998/05/12)
売り上げランキング: 17,742



 哀愁漂うブラームスもクライバーのタクトにかかれば、怒涛の情熱に変わります(ヴァイオリンがピッチカートからボウイングに切り替わるところのメロディが最高)。のだめカンタービレの千秋様もこういうタイプの指揮者だったほうが面白いのになぁ。




*1:指揮者。白髪鬼みたいな風貌。トスカニーニ、クレンペラー、ムラヴィンスキーと並ぶ「怖い指揮者」として有名





コメント

  1. はじめまして。
    カルロス・クライバーの指揮、本当に歓びに満ち溢れていますね。
    すごいなぁ…。
    素晴らしいものを見させて頂きました、ご紹介ありがとうございました。

    返信削除
  2. ちなみにこの演奏はDVDにもなっています。DVDの良い画質で観ると終盤にカルロス・クライバーの額から飛び散った汗がセカンドバイオリンの人にかかっている……というのが確認できます。

    返信削除
  3. この映像は1983年10月にコンセルトヘボウを振った時のライブ録音で、Geheimagentさん指摘の通り、レーザーディスクから今はDVDになっています。ちなみにベーム追悼コンサートの録音といわれているのは、1982年5月3日にバイエルン国立管弦楽団(Bayerisches Staatsorchester バイエルン国立歌劇場のオーケストラ)のカール・ベーム追悼アカデミーコンサート(アカデミーコンサートというのはこのオケがオペラと関係なくオケとして行う演奏会シリーズの名称)を振ったときのライブ録音のことを指します。曲目はコンセルトヘボウのときと同じベートーヴェン4番と7番です。4番は名盤として夙に有名。最近発売された7番も素晴らしい!いづれもORFEOレーベルです。

    返信削除
  4. 訂正&補足ありがとうございます。この映像、ベーム追悼とは違うものでしたかー。ベーム追悼のほうはたしか他にブラームスも振っていましたよね?

    返信削除
  5. カール・ベーム追悼アカデミーコンサートで、ブラームスは振っていません。ブラームス(第4番)は、ベートーヴェン「コリオラン」序曲、モーツァルト第33番との組み合わせで、クライバーが晩年に(ベートーヴェン第4番、第7番の組み合わせとともに)好んで演奏したプログラムです。1994年6月のベルリン・フィルとの2回目(且つ最後)のコンサートに始まって、バイエルン国立管とは何回もこのプログラムを取り上げています。特に1996年10月21日のミュンヘン・ヘルクレスザールでのコンサート(*)は、名演としてDVDに残されています。クライバーはブラームス第4番終楽章パッサカリアの有名なフルートソロ部分だけでも15分かけて練習したようで、心に訴える素晴らしい演奏となっています。

    (*)この演奏会はドイツ・メディア王レオ・キルヒの70歳誕生日を記念したコンサートだったのですが、その後2002年にキルヒのメディア帝国は倒産してしまいました]

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か