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オーケストラは史上最強の騒音発生装置だ




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 アドルノのマーラー論を読んでいるので、珍しくマーラーなどを聴いている。私の中では長らく「耽美で陰鬱な曲ばかり書く人」というイメージが強く(しかも曲が長い)敬遠しがちだったのだが、一年ぐらい前から「ああ、なんだ結構ユーモラスな音楽じゃないか。っていうかふざけてるな」と思い始め、今は結構好きな作曲家だ。「マーラーが結構好き」って言えるようになったのは、大人の階段を一段登ったような気分になる。いや、青春時代病的にマーラー好きになっちゃうやつは結構いるのだが……。

 マーラーで私が最も好きな交響曲の番号は第6番。標題が《悲劇的》。まるで全員死地にまっしぐらというぐらい恐ろしい行進曲から始まり、最終楽章ではドンキーコングが持ってそうな巨大なハンマーが打ち鳴らされる……という気が触れたような楽想が好きだ。死ぬまでに一度はハンマーを生で見たいと思っているのだが、なかなか機会がない。先日、「今、天国に最も近い指揮者」であるクラウディオ・アバドがルツェルン祝祭管弦楽団*1を引き連れて来日し、《悲劇的》を演奏していたけどチケットS席4万円とかで、無理でした。それでも売り切れてるんだからすごい。


 そんなことを考えながらアドルノのページをめくり続けていたら、どうしても「ハンマー」が観たくなってYoutubeで探すことを思いついた。けど無かった。代わりに見つかったのがたぶん10年近く前のアバド指揮ベルリン・フィルの交響曲第2番《復活》の映像。ぼんやり観てたら「マーラーってやっぱり馬鹿みたいだな。すごいな……」と感じる。舞台上にいる百人以上の演奏家にまず圧倒される。自分も似たような曲を何度か演奏しているから今まで普通に考えてきたけれど、「一つの音楽」のために百人以上の人間が集まってる、って異常事態なんじゃなかろうか。そして、爆音。しかもアンプなんて一切用いない生音。これ生で聴いたらオシッコ漏れちゃうよ、きっと。


 冒頭に配したのは、《復活》5楽章の一番うるさい部分。これを観ていて「オーケストラは史上最強の騒音発生装置だ」と思ったのでした。ベルリン・フィルは「世界最強の騒音発生装置」の二冠。本気出したら人ぐらい殺せるんじゃなかろーか。



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 映像をもう一つ。こちらはレナード・バーンスタイン指揮/ウィーン・フィルによる交響曲第7番《夜の歌》の最終楽章。ベルリン・フィルが「世界最強」とするなら、こちらは「世界最強のローカル騒音発生装置」になるでしょう(そもそも楽器が違うんだから)。



マーラー:交響曲第2番
マーラー:交響曲第2番
posted with amazlet on 06.11.02
ブーレーズ(ピエール) ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 マーラー ヤング(ミッシェル・デ) シェーファー(クリスティーネ) ウィーン楽友協会合唱団
ユニバーサルクラシック (2006/04/26)




マーラー:交響曲第7番
マーラー:交響曲第7番
posted with amazlet on 06.11.02
ブーレーズ(ピエール) クリーヴランド管弦楽団 マーラー
ユニバーサルクラシック (1996/03/25)
売り上げランキング: 175,511


 とにかくマーラーの作品のCDは音が良ければ良いほど、ダイナミクスが大きければ大きいほど衝撃的だと思う*2。というのも、録音が古いものだと単純に全ての楽器がフォルテッシモで鳴っているようなところでマイクが全然音楽を捉え切れてないところが出てきてしまうからだ(なのでMP3で聴くような音楽でもない)。最近の演奏だとブーレーズの演奏が素晴らしかった。特にクリーヴランド管弦楽団を指揮した第7番は、この曲の躁っぽいところがガチガチに管理されている感じがしてすごく面白い。超ダンサブルです。




*1:全世界のトップ・プレーヤーをかき集めたオケ。なんっつーかレアル・マドリードみたいな


*2:ただ、「良い音」と「好きな音」は異なる。私の場合50-60年代におけるEMIの音源が好きだ





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