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続・「考える」というライフデバッグ



「考える」というライフデバッグ - 「石版!」


 id:hachi_gzkさん、コメントありがとうございます。コメント欄に返信を書こうかと思いましたが、考えているうちにとても長くなりそうな気がしましたので、新たにエントリを書くことで返信に代えさせていただきます。無作法かもしれませんが、ここにまずhachi_gzkさんのコメントを引用させてください。



バグに対して自らを一方的に「守る」のではなくて、原因を追及して「攻める」というのは大事な事だと思います。ノアのジュニアヘビー級の様な目まぐるしい投げ技の応酬には、お互いの「攻める」と「守る」のバランスがとても大事ですし。……まあ、それは置いといて。


実の所、その「考える」という点が何かネックになっていて、誰しも「考える」事によって正しいデバッグが行われるのか(『正しい』という事は、実際には無いけれど)という部分なのです。


例えばの話として、「考える」事によって「秋葉原を歩いていても刺されることがある」が「どこを歩いていても刺されることがある」や「(俺はどんな状況でも)秋葉原を歩いていても刺される事がない」、ひいては「秋葉原を歩けば、あの様なハプニングも見られる」のような都合の良い方向に変わってしまうのではないか。


確かにこれは「秋葉原を歩いていても刺されるわけがない」という信頼は復旧されているけれども、それで何か「刺されない」以上の大事な物を上書きしてしまっているのではないかとも思うのです。


こういうデバッグは、実は無意識に自らが行っているのかも知れません。だとしたら、どのように自らがデバックを行っているのかを知ることが出来るのか……。と考えるときりがなくなってしまうので、それ以上は考えない様にしています。上手く考える知識と整理術が欲しい。


ただ、やはり明確な例を挙げられないので、これは間違っているかもしれません。



 私が考えていたのはそのように上書きを行う――「秋葉原を歩いていても刺されることがある」から「刺されるはずはない」――という方法とは少し異なったものでした。これについては、後述させていただきます。


 少し話は遠回りしますがお付き合いください。まず、私が検討しておきたいのは、どのような上書きがあり得るのか、ということです。まず、「秋葉原を歩いていても刺されることがある」が「どこを歩いていても刺されることがある」という書き換え。これは充分あり得る、というよりも、既に行われつつあることだろうと思います。「どこを歩いていても刺されることがある」という可能性が、今回の事件では事後的に発見されてしまいました(正確に言えば、これは『再発見』だったと言えるでしょう)。


 一方で「秋葉原を歩いていても刺されることがある」が「刺されるはずはない」という書き換えの可能性。これは現実的に不可能のように思われます。そのような可能性が現に存在してしまっているからです。少し奇妙に思われる説明かもしれませんが、そのような可能性が可能性として現れている以上「刺される可能性はない」と断言することはできません――しかし、だからと言って我々は街を歩けなくなってしまった、というわけではない。依然として「刺されるかもしれない」という問題が目の前にあるというのに、です。


 「そんなに気にしている人はいないからだ」と言ってしまうのは簡単です。が、しかし、なぜ多くの人は気にしないのだろうか――これは端的に言って「経験」がなせる業だ、ということが言えるでしょう。「昨日、ニュースで通り魔があったからと言って、すぐさま自分が通り魔に会うわけではない」という、これまでの経験が問題を解消してしまうのです。


 ただし、ここには「考える」という余地は存在していません。「それでは、そもそもバグが起こっていないのではないか」と思われるかもしれません。とはいえ、「刺されるかもしれない」という可能性が現れたことによって、現に何かが起こりつつあります。


 例えば、ナイフの流通の規制や、ネット上の殺人予告を通知するシステムの構想(このシステムに関してはまったくバカげた構想だと思いますが……第一、年金データベースのヨレさえも何年も気がつかないお役所の人たちに、そんな立派なものが使いこなせるのでしょうか?)、あるいはマンガやアニメや映画、ポルノに対する規制。このような動揺が社会の大きな部分で見られます。おそらく、目に入らない社会のミクロな局面でも同様に動きがあるのではないでしょうか。オタクやニートや派遣社員に対する蔑視が深まったりしているのかもしれません。セキュリティへの不安は高まっているように感じられます(その動きの問題点は、前の前のエントリで示しました)。


 ここで、ひとつ指摘できるとしたら、経験によって問題を解消する態度には、可能性に対しての「閉じ」が感じられます。つまり、そもそも現れてきた可能性を無視してしまう、または認めようとしないという態度が見受けられる、と――ただ、その閉じたところの隙間のようなところから可能性が漏れ出してしまう。これがセキュリティへの不安へと繋がっているようにも思われます。


 私はこれに対して可能性への「開かれ」を逆に考えてみたい。可能性を無視するのではなく、可能性を書き換えてしまうのではなく、むしろ、可能性をそのまま保持していくこと。これが私が前のエントリで言わんとしていたことです。「刺されるかもしれない」という可能性はある――と受け入れることによって、セキュリティへの不安ではない、別な指針を打ち出すことができるのではないだろうか、と。


 考えることによって結論を出す(『刺されない』と不安を書き換える)ことはここでは求められません。もちろん「不安を克服しろ」というわけでもありません。「刺されるかもしれない」ことが怖いのは当たり前のことです。しかし、その可能性について考え続け、怖いと感じられるからこそ(例えばですが)「怨念が暴発する可能性を下げる方策」へと向かうことができるのではないだろうか、と思うのです。



限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学
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 最後に、私が以上のようなことを考えた元ネタになっているであろう本を紹介しておきます。hachi_gzkさんがこの返信を面白く読んでいただけたら光栄です。





コメント

  1. 返信ありがとうございます。とても面白く読めました! 
    前述のエントリの「バグ」というのは「起きてしまった可能性、もしくは恐怖や不安」の一つであり、ライフデバッグとはその「バグ」の構造を正しく理解し、当該の「バグ」を排除する事ではなく、それを含めた上での自身の生活や社会規律や規範、道徳を見いだすことができないかということ、と今回のエントリで理解しました。(これでこのエントリの内容を誤解していたら、本当にスミマセン)
    つまり私の書いていたのは「考える」という以前の事だったのですね。それがはっきりと分かっただけでも、自分をさらせて良かったと思います。
    また疑問に感じる事が有ればコメントすると思うので、それが少しばかり見当違いであっても付き合っていただけると有り難く思います。それでは、また。

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