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ジャチント・シェルシ《やぎ座の歌》




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 今年で死後20年になるイタリアの作曲家、ジャチント・シェルシの声楽作品《やぎ座の歌》を聴いた。これは彼の夫人でもあった平山美智子(この方、植木等に歌のレッスンをしたこともあるらしい)のために書かれた全20曲におよぶ連作歌曲。録音は2006年に行われ、ソプラノは当時82歳の献呈者本人による。本当ならばとっくに引退してもおかしくない年齢であり、声質には確実に年齢が現れてしまっているのだが、彼女の絶唱は衝撃的なほど良かった。ここまで「凄み」がある歌にはなかなか出会えないだろう。


 作品もとても興味深い。シェルシの作品の特徴である、同じ音の繰り返し/持続によって、倍音を聴かせる(こういうのもひとつのゲシュタルト崩壊なのだろうか。例えばドの音をずっと聴き続けていると、次第にそれはドに聴こえなくなってくる)という手法がここでも採用されている。これが平山の歌と相まって、かなり呪術的な雰囲気を醸し出している。トランス・ミュージック的である、といっても良いかもしれない。聴き手の聴覚と時間感覚を狂わせるような恐ろしい音楽にも聴こえる。


 作曲されたのは1962年~1972年の間だが、《やぎ座の歌》は時代の流れとはまったく関係なく生まれてきた音楽だと思う。ライヴエレクトロニクスが使用されている曲もあれど、うまく20世紀の音楽史のなかに落ち着けるような座標が見当たらない。それは貴族の末裔に生まれ、まったく社会に関与しなくとも生活ができた、という環境のせいもあったのかもしれない――社会に関与しない作曲家も現代では稀だと思う。なにせ精神の病にかかってからは、家にこもってひたすら即興演奏を行いそれをアシスタントに楽譜に起こさせた、というアウトサイダーっぷりである。


 アルノルト・シェーンベルクやピエール・ブーレーズ、こういった作曲家には何か歴史の必然のようなものを感じる(ジョン・ケージにさえも)。だから、彼らの音楽が評価されるのは当然のように思う。しかし、シェルシはそのような論理的な枠組みでは捕らえることのできないところから生まれてきている気がする。おそらく、70年代に入って「発見」がおこなわれ、「スペクトル楽派の先駆け」と称されるようになるまで、彼はほとんど評価の対象外の人物だったのではなかろうか。


 それが今では、こうしてちゃんとCDで聴くことができる。考えてみれば、奇跡みたいな話だ。





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