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アドルノ『楽興の時』全解説(2) シューベルト




ベートーヴェンの没年とシューベルトの没年のあいだに横たわる境界線を踏み越えた者が見舞われる戦慄は、冷却しつつ鳴動する擂鉢状の噴火口から、いたいほど明るく白々した光のなかに一歩踏み出した人間の覚えるそれに似ているかもしれない。



 1929年、シューベルト没後百年を記念して書かれたシューベルト論。この文章は『楽興の時』に収録されたもののなかでも最長の部類に入るもので「著者が音楽の解釈のために書いた最初の大がかりな仕事」(P.8)とある。アドルノは後に自ら「多くの点が、抽象的な域にとどまっている」(同)と反省をおこなっているように、読解にはかなりの労力を要する作品だが、ヘーゲルに根ざした彼の歴史意識と音楽作品との関係性なども読み取れ、大変重要な作品だと思われる。

 ここでのアドルノの主旨は大きく2つに分けられる。ひとつは 「ベートーヴェンの晩年様式」でも書かれたような「心理的な解釈」への批判である――「彼がベートーヴェンのように人格の自発的な統一から理解されえないからといって、彼の人柄なるものをでっち上げ、その理念がいわば目に見えぬ中心となって相反する様相をまとめ上げているのだと考えることほど、彼の音楽の内容を徹底的に損なうことはないであろう」(P.23)とあるように、アドルノは徹底して楽曲分析からの解釈を主張する*1。もうひとつの主旨とは楽曲分析から批評の実践である。以降では、このシューベルト論について見ていこう。





ベートーヴェンやモーツァルトの形式が無言の不壊の持久力を示しているかたわらで、シューベルトのそれの持つ生命が尽きるようなことがあっても――もちろんこの点も、彼の形式について本格的な究明がなされないかぎり、決定的なことを言うわけにはいかない――乱雑で、月並みで、倒錯した、社会的に既成秩序にきわめて不都合な接続曲(ポプリ*2)の世界が、彼の主題にたいして第2の生命を保証してくれるのだ。(P.27-28)



 アドルノはまず、シューベルトの形式における構成の弱さ、不明瞭さについて着目した。ベートーヴェンやモーツァルトに比べると、シューベルトの形式は不朽の名作と呼べるほどの強度に欠けることを彼は指摘する――ベートーヴェンやモーツァルトは、主題を有機的に発展させ、目的論的に構成する。しかし、シューベルトはそのようにしなかった(できなかった)、と。だが、シューベルトは作品を「主題と主題をつなぎ合わせながら、1つの主題から他に影響するような帰結を引き出す必要のない接続曲」(P.28)とすることで、その価値を延命させようとしたのだ、とアドルノは述べている。だから、シューベルトの音楽は必然的に断片的な性格を持つことになる。





 興味深いのは、アドルノが主題の扱いに対して、歴史を布置している点である。アドルノは、ベートーヴェンやモーツァルトの主題の発展形式に、弁証法的な歴史のダイナミズムをそのまま見出しているのかのようだ。しかし、シューベルトの作品にそのようなものは存在しない。接続曲における各個の主題は、すべて完全に交換可能であり、そこには一本の線で繋げるような流れは存在しないのだ。この非歴史性、断片的性格がシューベルトの「風土」を際立たせる、とアドルノは言った。そして彼は、この風土について次のように述べている。



それは先ずもって、死の風土なのだ。シューベルトのある主題の出現と、つぎの主題のあいだに歴史が介在していないように。生が彼の音楽のねらいであることはない。(P.30)



 また、アドルノはこの「死の風土」のなかに、シューベルトが「さすらい人」の概念を紛れ込ませていることも指摘する。精神分析が「旅と放浪を、古代から伝わり残る客観的な死の象徴表現と断定している」(P.33)ことを根拠に、彼はこの概念にも死の匂いを嗅ぎ取りながら、この概念によってシューベルトの主題操作と歌詞の選択を結び付けようとする。


 シューベルトの主題は、さまよう。その姿は、時に同じ主題が、違った作品のなかで用いられることによっても現前される。だが、その反復は「歴史ではなく遠近法的な巡回」(同)であり、主題がさまよう姿は常に「時を超越し、たがいに結びつくこともなく」(P.34)、死の形象を表すのだ。「そこに生ずる変化も、すべて光の変化でしかない」(P.33)。





 ここから再度、アドルノはシューベルトの形式について触れ、この概念を形式についても当てはめていく。



シューベルトの変奏作品はベートーヴェンのそれのように主題の組成には手をつけないで、主題のまわりを包んだり遠巻きにしたりするだけだが、とくにこうした変奏作品において、巡回する旅がシューベルトの形式になっていると言ってよい。そこでは形式に手っ取り早くそれとわかる中心があらかじめ与えられていなくて、立ち現われるすべてのものを引き寄せる力のなかに、始めて中心が名のり出るのである。(P.34)



 アドルノは、この「中心」に、19世紀の芸術、そのなかでも風景画のなかに切取られたような「気分」を見た。発展のない主題の反復(しかし、その反復は和声上の移行などによって「露出を変えるようなぐあい」(P.35)に姿を変える。しかし、そこで主題の本質的な変化は生じず、あくまで仮象の変化であることに注意)は、あたかも気分の移り変わりのようであり、この点においてシューベルトの気分は純正なのだ、と。


 また、シューベルトのソナタ形式をアドルノは「おしきせのソナタ」と評する。この形式のなかでシューベルトの主題は、「いやでも制御しなければならぬという内在的な強制」(P.36)を受ける。だが、この強制力によって、シューベルトの主題を生み出す着想の力は強くなり、同時に主題はより強いものとなる。アドルノがシューベルトに弁証法を見出すのは、この逆説的関係性においてである。





 これ以降、アドルノはシューベルトの具体的な作品を引き合いに出しながら、検証に入っていく(P.38以降)。ここではシューベルトの作品がどのような気分を表象しているのかについて述べられているのだが、おそらくこの箇所がもっとも難解な箇所であろう。あたかも、その気分を詩的言語によって置換しようとするかのような調子を帯びており、かなり意味を読み取りづらい。しかし、アドルノによる悲哀、希望、歓喜……といった様々な気分の解説に対して、更なる解説を加えることにはあまり意味がないように思われる(ここは実際に本文に触れなければならない箇所であろう)。ただ、この部分の最後については少し触れておきたい。アドルノはシューベルトの「気分」の描かれ方についてこのようなことを述べている。


シューベルトが試みたのは、失われた近隣を行きつくことのできない遠方によって補正することではなかった。彼にとっては、超越的な遠方が、すぐ身近で手の届くものとなるのである。それはハンガリーのように*3門のすぐ前にありながら、そこの不可解なことばのように遠いのだ。そこに謎めいたところが生じ(中略)つい手づかみにできるほど近くにありながら、幻のようにとらえどころがないのである。(P.44)


 シューベルトは気分を純正に描く。しかし、そのような純正な気分というものは、本来であれば我々のずっと遠方に存在しており、触れることができない(純正な悲哀、純正な歓喜とは果たしていかなるものであろうか?我々の感情とは、通常もっと不純なものであろう*4)。だが、シューベルトはそれを身近なものとして、我々が触れられるものとして音楽の中で描いている。ただし、それは純正であるあまり「幻のようにとらえどころがない」――アドルノが言わんとするのは、このようなものであろう。「わたしたちはこの音楽を解読することができない」(P.45)とまで彼は言う。しかし、「シューベルトの音楽を前に、涙はこころに相談もなく、目に溢れ出る」(同)。この涙こそが「究極の和解の符丁」なのだ。


 ここに、シューベルトの気分が、すでに過ぎ去ったものであり(「現世のそれではなく、追憶のうちのふるさと」(同))、彼の音楽がその過ぎ去ったものを非論理的に理解するための契機である、というアドルノの主張を見てよいと思われる。




*1:また、ここでは作者の感情と作品の関係性について反ロマン主義的な主張もおこなわれる。「抒情詩人は作品のうちに直接みずからの感情をうつし出すわけではなく、むしろ彼の感情は、無類に小さな結晶体における真理を、作品のなかに引き入れるための手段なのだ」(P.25)


*2:メドレー


*3:シューベルトはオーストリアの作曲家であることを思い起こされたい


*4:さらに言えば、我々の気分は、不純なものへと変容したのである





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