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映画音楽家としてのクリント・イーストウッド



 もうすぐクリント・イーストウッド監督の新作『チェンジリング』が日本でも公開される。ここ数年、この監督の作品を(DVDが安く売っている、という理由で)かなり集中的に見続けてきたが、劇場で鑑賞したことが一度もないため、今回は是非とも劇場に足を運びたい。


 映画の公式サイトを見てみると、映画のメインテーマらしきものが聴ける。これを初めて聴いたとき「これってもしかしたらイーストウッドが書いてるのか?」と思ったが、サイトのスタッフ紹介を見てみるとやはり監督自身によるものだった。彼が監督業と音楽を兼任している作品をこれまでにいくつか観ているが、ここにきて彼が書いた音楽はかなり興味深いように思う。



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 上にあげたのは『ミスティック・リバー』のサウンドトラックを紹介している動画。イーストウッドの音楽の特徴がこれを聴いていただければ大体分る――ほとんどの作品で彼は同じような曲しか書いていないのだから。彼の特徴とは、つねにアダージョであることだ。これは『チェンジリング』にも『父親たちの星条旗』にも共通して言える。ブラスによって特徴的な主題を登場させるわけではなく、大部分がストリングスによる和声的な移行によって進行する、どこか物憂げな音楽。イーストウッドはつねにそのような音楽を書いてきた(おそらく編曲はいつも別な人物によってなされていると思うのだが)。



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 彼の音楽はサミュエル・バーバーの音楽を彷彿とさせなくもない。こちらの動画はサミュエル・バーバーによる《弦楽のためのアダージョ》。この作品は映画『プラトーン』のなかで使用されていることで有名だ。



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 2007年の『さよなら。いつか分かること』(イーストウッドが初めて他人の映画に音楽を提供した作品)でもこのような特徴は顕著である。思うに彼の音楽は、ジョン・ウィリアムズやエンニオ・モリコーネ(日本で言えば久石譲)といった著名な映画音楽家が持つ特徴とは正反対のところに位置している。イーストウッドの音楽には、口ずさむことの出来るようなキャッチーなところは存在しない。ほとんど印象にも残らないところが逆に印象に残るようなところさえある。



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 2006年の『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』では、クリント・イーストウッドが前者の音楽を、息子のカイル・イーストウッドが後者の音楽をそれぞれ担当しているが、こうして並べてみてもクリント・イーストウッドの音楽は異様なほど印象に残る主題に欠けている。こういったところが彼の音楽がそこまで語られてこない理由にもなっているような気がするのだが、それは少し勿体無い。イーストウッドという監督の演出における音楽の用い方には、かなり変態的なところがあり、かなり語りがいがありそうだから(とくに『ミスティック・リバー』のものすごく後味の悪いラストに、美しいメインテーマが流れるところなどはかなり驚かされた)。





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