のっけから「諸君の希望でこの講演をすることになったが、私の話はいろんな意味で、きっと諸君をがっかりさせるだろうと思う」なんて始まるので、そんな導入って……!と爆笑したが、とても面白く読む。『職業としての政治』は、マックス・ヴェーバーが1919年、第一次世界大戦が終わり、ヴェーバーが死ぬ前年に行われた講演をもとにした本。分量としては大変短い本なのだが「支配の正統性の3分類」や「国家と暴力の関係性」など、今なお姜尚中や宮台真司に引用されているトピックや、この時点ですでにドイツにおけるファシズムの到来に対する予言染みた言葉などがあり、読んでいて大変に興奮した。思うに、ここで行った政治のシステムについての分析はいまだに現役である。議会における政党政治の発展と共に、選挙が高度にシステム化され、また政治家は何らかのアクションを起す人、ではなく、政党が議会にもつ単なる「議席」に過ぎなくなっていく――など、普段政治に対してまったく興味がもてない私でも、なんとなく納得がいく。もしかしたら、今読むべきヴェーバーの作品はこの本なのかもしれない。
昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

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