スキップしてメイン コンテンツに移動

大澤真幸『資本主義のパラドックス』




資本主義のパラドックス―楕円幻想 (ちくま学芸文庫)
大澤 真幸
筑摩書房
売り上げランキング: 171066



 一九八〇年代後半から九〇年ぐらいまでに発表された大澤真幸の近代論集であり、資本制論集。「ちくまの本で大澤真幸のプロフィール欄に使われている写真は、どういうシーンで写されたものなんだろうなぁ……(ややハニかみながら、首をかしげている)」と思いながら読む。全体は三部に分かれており、それぞれ「幻想としての資本主義」、「近代という運動」、「週末としての資本主義」というタイトルがついている。なかでも第一部はとても面白かった。




 問いは我々が日常的に用いている貨幣とはどのような性質をもつものか、そして、なぜ機能可能なのか、というとても身近なところから始まる。重要なのは、信用である、と大澤は言う。しかし、その信用は無根拠によって支えられている。たとえば、お金になりそうなアイデアを持っているが、それを現実に実行するための資金がない、という人がいるとする。そのような場合、おそらく彼は資金を借りるために、銀行に融資をしてもらいにいくだろう。いろいろあって*1彼はお金を借りられることになった。次の日に彼の銀行口座には、お金が入っているだろう。





 このとき、銀行は彼に信用を与えたことになるだろう。正確に言えば、彼が持っている「お金になりそうなアイデア」に対して信用を与える。これによって彼はお金を得ることができた。しかし、これは考えてみれば不思議な話でもある。それは、この取引によってお金になりそうなアイデアというまったくどこにも現物が存在しないものからお金が生まれたことだ。大澤が指摘する信用の無根拠さとは、簡単にいうとその現物(保証)がどこにも存在しないところから、流通される貨幣が生まれる、という不思議さになるだろう。





 無根拠なまま信用が与えられるメカニズムには、未来への信用が必要不可欠である。銀行が信用を与えるのは「きっと、この人は将来利子をつけて貸したお金を返済してくれるだろう」という信用をしているからだ。だが、この信用もまた無根拠なものとならざるを得ない。では、どうしてそのような未来への信用が可能となるのだろうか……?





 ここから大澤の探求が大きく跳躍していく。十七、十八世紀にヨーロッパに現れた錬金術師の分析へ。この跳躍から二、三のポイントを経由しつつ、はじまりの地点である「無根拠な信用が可能となるメカニズム」へと戻ると、そこでは信用を与える主体にとっての、他者である信用を与えられる主体の現れ方がキーになっていることが見えてくる。これは非常に議論の運び方として鮮やかで、こういうものを読むのは社会学者の著作を読む楽しさの醍醐味のひとつであろう。大変勉強になった。





 しかし、続く第二、第三部はどうも切れ味が悪く感じられてしまう。大澤は第二部ではモーツァルトから近代の主体意識の萌芽を分析し、第三部ではディズニーランドという空間を成熟した近代の主体意識のマッピングを試みている。議論の枠組みとしては、第一部と同様であるのに、それほど効果的な議論ができないないように思えてしまう。なぜなのだろうか?





 少し思い当たるのは、分析の対象と分析の結果とのあいだで上手く距離がとれていないのではないか、ということだ。例えば、モーツァルトという分析の対象があって、近代の主体意識という結果がある。大澤はふたつの構造の類似性・同質性によって、対象と結果を結び付けようとする(このやり方は、第一部でも同様である)。だが、ここでは類似性・同質性に頼りすぎているのではないだろうか、と感じられたのだ。しかし、これもまた勉強になる。以前「似ていることを指摘するだけの議論には意味がない」という話をされたことがあるが、これを読みながら、少しその言葉の意味が理解できた気もする。





 最後にどうでもいいところでツボだった点を以下に引用(正確には孫引きだが)。



十七、八世紀の宮廷社会の風俗のなかでも、ひときわ奇妙なのは、寝室で華麗な便器がたんに便器として使われるだけではなく、寝室の主の公的な座になっていたことである。極端な言い方をすれば、「便器の玉座」があったのである。


 下品伯爵*2もびっくりだね!




*1:査定とかそういうの


*2下品伯爵の一日 - はてなハイク





コメント

  1. >「無根拠な信用が可能となるメカニズム」

    mk さんが,最近新邦訳の出たルソーの『人間不平等起源論』『社会契約論』などを,どのように読まれるのかというのも興味がわきます.

    返信削除
  2. では、読ませていただきます。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...