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大友良英&飴屋法水 @新宿PITINN



震災以降ライヴのスケジュールが軒並みキャンセルとなってしまい、久しぶりのライヴとなってしまったが、大友良英の3デイズ初日へと足を運ぶ。本日は前半のセットが大友によるソロで、ピアノを使った即興がおこなわれた。しかし、ピアノといってもアコースティックな、生のままで演奏されたのではなかった。エレクトリック・プリペアド・ピアノとでもいうべきだろうか、電子的な変調されたピアノの音色は激しく歪み、つんざくようなフィードバック・ノイズを奏でる。だが、そのノイズは大友がギターで奏でるときのような重みを持たず、どこか透き通っていて、歪んでいるのに整った音だ。そこに「ピアノはどこまでいってもピアノ」という感想を抱いた(ピアノという楽器の強さを感じるとともに)。当然、楽器の特性上、ギターやターンテーブルを使った即興よりも、ひとりで出せる音も多くなる。これによって、ひとりで即興アンサンブルをおこなったときのような音のレイヤーも作られる。湯浅譲二のピアノ作品かテープ作品に似たような音響の曲があったかもしれない、と思いつつ、大友のピアノ演奏にはまだまだ可能性が残されているような気がするのだった。





後半は飴屋法水とのデュオ即興。飴屋法水のパフォーマンスを観るのは今回が初めてで、冒頭から野菜を食べ出すなど、その型破りな(?)方法には客席から笑いが漏れ出す(が、どうしてステージで野菜を食べたら『面白く』なってしまうのか、これは深淵な問題であろう。これはヘルムート・ラッヘンマンや川島素晴の作品の問題圏と重なる部分がある)。これに対して大友も工事現場の人が使うようなメジャーを使って自作ギターを弾くなどして応酬。この音楽ではないようなパフォーマンスは、数年前のアルフレッド・ハルト、吉田アミ、杉本拓による同じく新宿ピットインでの即興ライヴの模様を思い出させた。しかし、飴屋がギターで単音を繰り返し弾き続けたところからステージの状況は一変する。そのあまりにシンプルなリズムに導かれるように、飴屋が歌い出したとき、音楽が急に《始まった》と思った。これはちょっとした衝撃的瞬間というヤツだ。その歌声には、なにかこどものような無垢さを感じたし、また向こう側の世界の声、というか、常人には容易にたどりつけない世界の音のようにも聞こえる。どこまでも私見であるけれど、倉地久美夫が(おそらくは訓練の末に辿りついた)向こう側の世界と同じ領域が、まったく別な方法によって、目の前に拓かれた感じ、というか……。まったくえらいものを見てしまったなあ……。





この日は水戸でおこなわれていた展覧会「ENSEMBLES 2010 共振」のDVD発売記念ということで展覧会には行ってないけれど、買って帰りました。あと大友良英+尾関幹人+マッツ・グスタフソンによる『with records』も。


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