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非職業としての勉強家


何かを作って発表することが根源的に恥ずかしい行為であること(それが自分の内側からでてきているもの、である限りにおいて)は常につきまとっているのであり、それが平熱でできるようになるには、誰かからチヤホヤされたり、承認されることによって、それを恥ずかしいと思う心が徐々に麻痺していくことによって可能になる、のだと思った。ここ数年、小説を書いてみたり(一人では恥ずかしいので友人を誘って)、音楽をやってみたり(一人では恥ずかしいので友人を誘って)したけれど、それはずっと恥ずかしいことだと思ってきたし、楽しいけれども羞恥心が麻痺するまで誰かに褒められたことはない。それでも未だになにかをやっている、やろうとしているのだから、恥知らずにもほどがある、と言っても良いのであろう。

勉強をして、その成果をどこかにまとめておくことは創作と違って、とても心が軽いことで、それは自分の内側からなんらかのアウトプットを出すのではなく、外から取り入れたものを解釈してアウトプットする(自分が考えたことではない)、という言い訳が存在するからなのかもしれない。もちろん、外から取り入れたものを媒介として自分の言いたいこと、考えたことを外に出すのだから、そんな言い訳は嘘であって自分が考えたことなのだろうけれども。また、単なる消費や浪費ではなく、着実になにがしかを得ているという実感があるのも楽しい。

もうすぐ500ページぐらいの英語の本が読み終わる。半年前は日に2ページも進まないことがあったのに、いまでは格段にスピードがあがってきた(それでも読むのに半年ぐらいかかっている)。死ぬまでにいくつの言葉が読めるようになり、何冊の本が読めるのだろう。最近はそんなことがまれに頭に浮かぶ。英語とラテン語を同時並行で学び、その次は、スペイン語、フランス語、ポルトガル語、ドイツ語……など壮大な構想があるけれど、限られた時間のなかでどこまでいけるものなのか(井筒俊彦のような天才ならば良かったのだが残念ながらそうではない)。どこかでコレ、と決めて力を注いだほうが良いのかも知れないのだけれど、そうしたところに責任も使命もなにもないのが非職業としての勉強家の気楽さではある。

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