スキップしてメイン コンテンツに移動

村上春樹を英語で読みなおす 『ダンス・ダンス・ダンス(Dance Dance Dance)』

Dance Dance Dance
Dance Dance Dance
posted with amazlet at 14.09.19
Haruki Murakami
Vintage
売り上げランキング: 511
こないだのロンドン旅行の帰りのことだ。行きの飛行機のなかでも気づいていたのだが、帰りの飛行機で読む本がないのが問題だった。道中の半分は酒を飲んで寝ているとはいえ、12時間弱のあいだに読む雑誌か本が必要だった。そんなときにヒースロー空港の本屋で村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の英訳が売っているのを見つけた(海外にいくと本当に村上春樹の翻訳はよく見かける。日本で言うとダン・ブラウン……とまではいかないが、それなりの人気海外ミステリーの邦訳みたいなかたちで売っている。世界的な人気は嘘ではないのだ、と翻訳されたものが平積みになっているのを見るたびに思う)。ちょうど、今年は『羊をめぐる冒険』を読みなおしていて、この作品も読みなおしたいと思っていたところだった。英語で読みなおすのも悪くなかろう、と思って、このペーパーバックを掴んでレジに持っていった。

文庫では上下の2冊にわかれているが、英訳のペーパーバックは1冊400ページ弱、それなりのヴォリュームがある本だが、面白くて一気に読んでしまった。Alfred Birnbaumの訳が良かったのかもしれない。もちろん日本語で内容を知っていたこともあるけれど、こんなに英語がスラスラと読める経験はこれまでになく、村上春樹が書く文章のリーダビリティーは、この英語版でも失われていなかった。ここ最近、わずかながら翻訳に関わっていることもあり(英語 → 日本語と、英語 ← 日本語という矢印の違いがあるとはいえ)「翻訳ってこんな風にやっても良いんだ」と勉強になる部分もあった。

たとえば「村上春樹の『やれやれ』」はこんな風に訳される。以下は、大雪の日に、主人公がユキを託されるシーン。
「やれやれ」と僕は言った。それから僕はふと思いついたことを口に出してみた。「ねえ、その子ひょっとして髪が長くて、ロック歌手のトレーナーを着て、ウォークマンを聴いていない、いつも?」
「そうよ。何だ、ちゃんと知ってるんじゃない」
「やれやれ」と僕は言った。
(講談社文庫版 上巻 P.199)
これが英訳では、
"Great," I said. Then the thought occurred to me. "It wouldn't happen to be a kid with long hair and rock 'n' roll sweatshirts and a Walkman, would it?"
"The very same. How did you know?"
"Fun for the whole family."
(ペーパーバック版 P.106)
となる。「やれやれ」に対して、特定の言葉が与えられているわけではなく、文脈に応じて、意味が与えられている。「やれやれ(Great)」、「やれやれ(Fun for the whole family)」。もう一度日本語にするならば「Great(まったく)」、「Fun for the whole family(家族揃って愉快なもんだ)」などと読めるだろうか。これを編集的翻訳と呼んでもも良いかもしれない。

あるAmazonのレヴューでも指摘されているとおり、この翻訳は逐語的な訳ではない。それどころか「アレ? あの部分は?」と思って原著を確認すると、ガッツリとカットされている箇所も多々ある。その点を低く評価しているレヴュアーもいるけれど、わたしはこの編集的翻訳ヴァージョンを、少しも村上春樹の小説らしさを損なっていないもの、と思った。リーダビリティーの面でも、文章のリズムにおいても。そうした「らしさ」を残しつつ、文章を英語的に馴染ませているのだ。

いうまでもなく、完璧な翻訳など不可能だ。日本語の装飾(たとえば男女による語尾の違い)が翻訳によって削られ、作者が想定していた登場人物の像とズレが生ずる可能性もある。とくにわたしには、英語で語られるセリフは、原著の登場人物の年齢を2、3歳引き上げているように感じられた。英語版のユキ(13歳)はもっと大人びていて、ちょうどトラン・アン・ユンの『ノルウェイの森』における水原希子を想起させたし、ユミヨシさんは原著なら貫地谷しほり、英語版なら吉高由里子にお願いしたい(ただし、どうやっても五反田君は吉田栄作なのだが)。ただし、それはズレ、というネガティヴな捉え方よりも、作品の新しい読みを提供するものとしても読める。

ペーパー・バック版の裏表紙には、ある書評からこんなフレーズが引用されている。「もしレイモンド・チャンドラーが『ブレード・ランナー』を観るまで長生きしていたなら、『ダンス・ダンス・ダンス』のようなものを書いているかもしれない」。英語版で今回読みなおしてみて、こんなにこの作品を射抜いている言葉はないと思った。英語に翻訳され、小説の舞台である1983年の風景が削られることで、その風俗小説性というか、俗っぽさが薄まり、小説の構造的な部分が見えてくるのではないか、とさえ感じるのだ。

この作品では、村上春樹作品の典型的なヒロインである、主人公を強烈に導いていく巫女のような女性が、ピタリと主人公に張り付いているわけではない。アドヴァイザーの能力は、さまざまな人物に分配されていく。だから、主人公はあちこちを、東京、札幌、ハワイ、北海道を移動し、歩かなくてはならない。ただ、単にシャレオツな場所でシャレオツな音楽を聴いて、ベラベラとユーモラスな会話をしているだけではない。彼は、人のあいだを行き来することで、情報を得て、少しずつ核心に近づいていく。そういう探偵小説めいた要素が英語版ではよく見える。もっとも、その移動は『007』シリーズのような観光映画っぽさも想起させるのだが。

ここまで原著と英訳の違いにポイントをおいて感想を書いてきたが、改めて魅力的な小説であると感じた。ラストの性急さには不満を覚えなくはないけれども、探偵小説的に読者を刺す仕掛けには再度ドキリとさせられてしまった。それから書いてあること自体は『羊をめぐる冒険』、『海辺のカフカ』、『1Q84』なんかとあまり変わらないのだが『羊……』と比べると『ダンス……』は、ずっと超越的な存在であったり、悪しきものであったりの抽象度が高まっているように思う。悪そうなものは、たとえば馬鹿馬鹿しいほど高度に発達した産業社会的なものに象徴されるのだが、その象徴に結びつくものが『ダンス……』のほうがずっと遠くにある。小説の書き方において、ギアの入り方があきらかに変わっているのだ。

最後に、翻訳家の岸本佐知子による公開トークをもとにしたネット記事を紹介しよう。そこでは翻訳を勉強している聴講者が「翻訳が上達するアドヴァイス」を求めて質問をしている。それに答えて曰く「英語に訳されている日本の作家、村上春樹さんや小川洋子さん、あるいは川端や三島といった古典でもいいですが、彼らの小説の英訳の一部を自分で日本語に訳して、原文と比べてみるというのも良いトレーニング法です」と。わたしは邦訳の教材としてこの英訳を読んでいたわけではないけれど、この本はたしかに翻訳の練習教材としてもピッタリだと思ったし、それから「英文を読み通す訓練」にもちょうど良さそうだ。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...