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「アドルノ――モダニズムの往還」『現代思想』1987年11月号



 先日髪を切るため前に住んでいたところまで出向いた際に、ふらっと入った「本の価値があんまり分かっていない古本屋」で偶然見つけた雑誌『現代思想』のバックナンバー――特集はアドルノ。もちろん迷わず購入した。たった400円で鼻血が出るほど勉強になる買い物をしてしまい、ここ何日か気分が良かった。雑誌が出てから20年余り経った今、これを読むのはすごく「アドルノが人気のある時代っていうのが、かつてはあったのだなぁ」という羨ましいような気持ちにさせられる、と同時に「今こそ、アドルノを読む時代なのだ」という気持ちを強めた。


 「今なお、哲学を問うことはどういうことなのか」とアドルノが問うたように、ここに文章を寄せている人たちは皆「今なお、アドルノを読むことはどういうことなのか」を問いかけている。そこでは「ポスト・モダン思想の先駆けとしてのアドルノ(デリダよりも遥かにアクチュアルな問題を抱えた)」、「音楽学者としてのアドルノ」といった様々なアドルノの姿がプリズムのように描かれる。それぞれのアドルノの姿がそれぞれに興味深い。共通するのは、彼の言説がいつも「鈍い破壊力」を持っている、ということだろうか。「神は死んだ」と語るニーチェなどと比べると、やはり“人気”がないのも分かる気がする。


 アドルノが浮かび上がらせる「世界の恐ろしさ」は、だからこそ本当に恐ろしい。彼が与える衝撃は、じわじわとやってくる――多くの執筆者のなかでそれを正確に、魅力的に伝えているのは、三島憲一でろう(『否定弁証法』の翻訳者のひとり)。


 「例えばマルクスは、理想の世界を机の上描くのはイデオロギーでしかなく、哲学はまさに自己自身を今いちど転倒させて、そうしたイデオロギーを額面通り受け取り、世界を変革し、現実とならなければならないと説いた」。理想の世界を現実の世界とするために生まれた国家が、ソヴィエト連邦であったことは言うまでもないだろう。しかし、その試みは「理想の現実化どころか、スターリニズムを招来した」。アウシュヴィッツが生まれたのも、「理想を現実化する」という普通なら褒められるべき行動から発している――アドルノが説いた「理性の自己崩壊と野蛮さの召還」を三島はこんな例を挙げて簡潔に説明する。


 さて、現実(自然)を支配し、理想へと同一化させていくことが、暴力を生み、理想どころか地獄を生み出す「恐ろしさ」が伝わっただろうか。スターリニズムやアウシュヴィッツといった遠くにある、大きな地獄にピンと来ないのであれば、連合赤軍リンチ事件やオウム真理教などの例を考えてみて欲しい(それらの凶行も全て理想からはじまっている)。過去にあったことを忘れてしまったなら、『美しい国日本』というスローガンを思い浮かべるだけでも充分だろう。アドルノの言葉は、その「おぞましさ」を浮かび上がらせる力を持っているはずだ。


 まだアウシュヴィッツは終わっていないし、アドルノはまだ死んでいないのだ。





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