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演るを考える




ユリイカ2007年7月臨時増刊号 総特集=大友良英

ユリイカ2007年7月臨時増刊号 総特集=大友良英







 雑誌『ユリイカ』の大友良英特集をじっくりと読む。特集には対談形式の文章が多く掲載されており、カヒミ・カリィとのデレデレとした会話や、お互いのルーツを明かしあうジム・オルークとの対話、それからSachiko Mが毒を吐きまくる「オフサイトをめぐって」などがとても面白かった。「大友良英論」という章では、吉田アミの文章が飛びぬけている(涙が追いつけないほど、疾走する批評である)。しかし、この特集で最もスゴいのは細馬広通との『「音の海」という体験』というインタビューである。これは大友良英のファンだけではなく、音楽について考える人ならば読んでおいて損はない素晴らしい内容。


 このインタビューは2006年3月に大友良英が参加した「知的障害者との音楽ワークショップ」についてのものなのだが、イベントのはじまりからし知的障害者による「即興演奏ライヴ」の実現に至るまでのドキュメンタリーにもなっている。ワークショップで大友が触れ合った個性的な演奏家たちがここでは語られている。ここには皆が大好きな「障害に負けずに頑張っている障害者のひたむきな姿」はない。代わり浮かび上がってくるのは「健常者とは異なった感性を持つ“ミュージシャン”の驚くべき即興演奏の模様」である。そこから大友は「即興演奏」、あるいは「音楽」の在り方みたいなものを問おうとしているように思えた。



最初、音遊びのワークショップを見に行ってみると、子どもたちを自由に遊ばせていたのね。それは結構なことだと思ったんだけど、その自由に遊ばせてて終わったあと、それを離れて聞けば立派な音楽になりますって、当時、指導していた人が言うのを聞いて、ムカッときたんですよ。(中略)だったら、事務所で紙の上に書いて仕事しているところにこっそりお客さんを入れて、紙の音も素敵でしょ、これも音楽ですよというのと変わりないじゃない。



 20世紀。ジョン・ケージに代表される音楽家の活動によって、楽音と音楽は極限まで拡大された。今だって、机の前に座って4分33秒の時間を過ごすだけで誰もがケージの音楽作品を演奏したことになってしまう(また、今こうしている間にケージの『0分00秒』が演奏されている)。そのような状況では、当然「音楽とは一体何か?演奏行為とは一体何か?」という問いが生じるだろう(真っ当な人間であれば。ケージの熱烈な信奉者はそんな疑問すら覚えないのかもしれないけど)。引用した大友の「ワークショップでの苛立ち」はそのような問いにも対峙するものとなっているように思った。またこれは、あまりに「音楽を演ること」が安易になりすぎている現在への警鐘とも読める。読む人に「音楽を聴くもの」、「音楽を演るもの」としての自覚を呼び起こすような名文である。



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 大友良英の音楽、文章に触れていると「この人はやっぱりすごく真面目で、真剣な人なのだなぁ」と思う。今日新宿のタワレコに行ったら新譜がジャズ・コーナーのランキングで3位。これに触れた人がみんな音楽に対して、もう少し真面目な気持ちになったら良いのにな、と思う。いい加減な気持ちで聴けない音楽もあるのだ。





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