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カルロス・フエンテス『脱皮』




脱皮 (ラテンアメリカの文学 (14))

脱皮 (ラテンアメリカの文学 (14))






 最近はずっと20世紀の海外文学を集中的に読んでいるのだけれども、毎回「こんな風にも小説が書けるのか!」という驚きがあって楽しい。カルロス・フエンテスというメキシコの作家が書いた長篇『脱皮』もそういう類の本で、ページをめくるたびにアドレナリンが分泌されてしまう。この作家の作品は、これまでに2冊*1読んできたけれど、今回のが一番すごかった。400ページ、というと「まぁ普通に長い小説かな」という感じがするけれども、“ジョイスとプルーストがツェッペリンを爆音で聴きながら黒魔術の儀式を行っているような”とんでもない400ページである。ちなみに発表されたのは1967年。これはガルシア=マルケスの『百年の孤独』が発表された年でもある。


 神話的な、あるいは歴史的なモチーフと、泉のように湧き出る過去の記憶、そして繰り出される文学論・音楽論がカットアップのように繋ぎ合わされて展開されるという構造の複雑さに舌を巻くばかりではなく、描かれている内容もすごく濃厚。生命を失った肉体を瞬く間に腐敗させるメキシコの熱気とその腐敗臭で感覚がおかしくなるような壮絶な世界にひきこまれてしまう。

 しかしフエンテスが読者を引き込む世界は、リアリティを失った仮想の現実ではない。人を切っても血が出ない生易しい幻想ではない、刺されたら激痛が走る悪夢的幻想だ。このリアリティと幻想のバランス感覚(というか弁証法的綜合?)、そしてそこでなされる「現実のメキシコ」という国家への批判はいわゆる「マジック・リアリズム小説」のなかで、この小説が最良の一冊であることを感じさせる。そういう批判的なまなざしは小説家かつ外交官でもあるフエンテスならでは、というところかもしれない*2。小説の現実的虚構性が、国家の現実的虚構性を映し出す鏡になっている(こういうテーマにはすごく60年代を感じるけれども)のも「コルテスのメキシコ征服ルートを逆に辿る」という一応のあらすじから滲み出るかのよう。


 翻訳も良い感じである。様々なものが語れる、その対象ごとに文体が切り替えられているようなのだけれども(原文を見たわけではないからこれは想像だ)、その違いを上手く訳し分けている感じがする(途中で中上健次のように押し寄せてくる箇所があったりして興奮してしまった。しかも濡れ場)。超オススメ。あと集英社には「ラテンアメリカの文学」シリーズを復刊して欲しいです!




*1:その感想はこちら。『遠い家族』『老いぼれグリンゴ』


*2:フエンテスはまだバリバリの現役のようで、ネットで検索をかけてみるとモハメド・エルバラダイとのツーショットなんかを見ることができた





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